CASE018:介護を終えた娘へのレクイエム|ケアマネ医師は患者・家族とどう向き合ってきたのか 認知症の介入困難事例アプローチ|西村知香

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コロナ禍が始まり、1年以上になります。
さまざまな出来事がありました。

まず、90歳代の重度の認知症の人たちに、変化が起こりました。

2020年春の最初の緊急事態宣言で、デイサービス、ショートステイを取りやめた人から、それは起こりました。

自宅で過ごすようになり、寝たきりの生活になり、褥瘡ができて敗血症を併発して死亡。
嚥下性肺炎で入院、面会が制限されて、認知症が急激に悪化して、そのまま家族に会えないまま死亡。
コロナ禍がなければ、あと数年生きることができたと思われる人々がいました。

介護サービスで、なんとか命をつないでいたのです。
プロの介護が、人の命を支えていることをあらためて痛感しました。

80歳代の人たちには、じわじわ来ました。

死に直結することはありませんでしたが、通っているデイサービスやショートステイが、閉鎖されたことにより、急速に認知症が進行した人たちがいました。3カ月で、1年分ぐらい進行したのです。

ご家族からは、いままでできていたことが次々にできなくなる様子を聞かされました。そのような患者さんが、毎日のように来院しました。

デイサービスなどでのアクティビティが、認知症の進行速度を遅くしていたことが実感されました。

「デイサービスって、こんなに大事なものだったんですね」

何人ものご家族からそう言われました。新型コロナウイルスに感染した人よりも、認知症が進んでしまった人のほうがずっと多かったのです。

そして、コロナ禍は認知症の人たちだけでなく、介護を卒業した人にも影響を与えてしまいました……。

CASE 018
79才女性

疲れてしまいました

ケアマネジャーと娘に付き添われ、79才の女性が来院しました。

診察してみると、ご本人はハキハキしていて元気な方でした。明るく、笑顔が見られます。

一方、娘のほうが、元気がありません。沈んだ表情でした。

「介護に疲れてしまいました」

私の前でそう言いました。

これまでの経過

母親のほうは、東北地方で一人暮らしをしていました。娘は東京に働きに出ていて、こちらも一人暮らしです。

仲が良い親子で、お互いにときどき行き来して、問題なく暮らしていました。

性格は穏やかで、ほんわかしたタイプでした。

性格が変わる

X-6年、イライラしやすくなり、暗算が苦手になりました。調子が悪いと、切符の買い方を忘れることが出てきました。高血圧症の薬がちゃんと飲めなくなり、軽い脳梗塞を発症しました。

X-5年、一人暮らしだったので、東京に住む娘が引き取り、東京のリハビリテーション病院に入院させました。何とか在宅生活できるようになり、二人暮らしになりました。

以前は仲が良かったのに、母親は怒りっぽくなり、娘の援助を拒否したり、「迷惑をかけるぐらいなら死ぬ」などと投げやりになることも出てきました。

娘がご飯を作ってあげても、「こんなものいらない」と言って食べません。
やせてきました。

認知症と診断される

X-2年、近所の病院に相談し、認知症と診断され、抗認知症薬のアリセプト®を飲み始めました。

X年、精神的な症状が激しくなり、娘が介護に困るようになりました。このためケアマネジャーの付き添いで、当院初診しました。

初診時、娘に対して何もかも拒否します。何か言われるとすぐに怒り出します。気分のアップダウンが激しく、ときどき「死ぬ」と言います。

なくしたものは、娘が盗ったと思い込んでいます。他人に対する配慮がなくなり、デイサービスに行くと、身体の不自由な人が一所懸命やっているのを見て、「へたくそ」と罵ります。

医師の診察時にはニコニコしており、取り繕って、明るくハキハキ返事します。「もの忘れはしません。生活で困ることは何もありません」と、病識はまったくありませんでした。

娘がへとへとに疲れている様子だったので、まずは本人の精神症状に対して治療を始めました。

抑肝散加陳皮半夏を開始しました。この漢方薬は、認知症で興奮気味になったり、幻覚や妄想が出たり、怒りっぽくなっている人に投与すると、気持ちが少し落ち着く薬です。

MRIで大脳はびまん性に萎縮しており、海馬の萎縮も見られます。記憶力の検査では、記銘力障害が目立ち、直近の記憶がありません。
アルツハイマー型認知症と診断しました。

娘に接し方を指導

いままでの対応は、本人ができないことをいちいち指摘していました。褒めてあげることはありませんでした。イライラしてしまって、本人を無視してしまうこともありました。

このような対応をすると、アルツハイマー型認知症の人は心因反応を来します。悲観的になったり、怒りっぽくなったり、興奮して暴言を吐くようになってしまう人もいます。もの盗られ妄想も出やすくなります。

できないことを言うのではなく、できているところを褒めてあげて、無視しないで話しかけてあげるようにと指導しました。

娘が接しかたを変えたところ、怒りっぽさは多少良くなりました。すると本人は安心したのか、食欲が改善し、よく食べるようになりました。

娘自身も、この頃はちょうど更年期にあたり、当院で一緒に治療を開始しました。

肺炎で入院

しばらくすると、肺炎になり入院しました。入院中は抗生物質の点滴で治療されていたようですが、看護師に対して攻撃的になったので、治療半ばで強制的に退院させられました。

入院中に、グラマリール®を処方されました。

退院してからの様子は、退院前のように戻りました。入院中、精神状態が悪化したのはせん妄(一過性の意識障害)によるものと考えられました。

認知症の人は、体調不良になると意識が朦朧としてしまいます。これをせん妄と言います。体調が改善すれば、元のように戻ることがほとんどです。

グラマリール®は、せん妄によく使われる薬です。メジャートランキライザーの一種です。薬がよく効けばおとなしくなります。副作用は、薬剤性パーキンソン症候群がみられることがあります。パーキンソン病のように歩行障害、姿勢反射障害、安静時振戦などが出現します。

この方の場合、薬の副作用で手の震えや歩行障害が出現していました。しかし、内服していたほうが精神状態が安定するとのことで、娘の希望で服薬を継続することになりました。

認知症が進行

X+1年、認知症が進行し、冬なのに夏の服装をしています。便失禁するなど、排泄のケアも必要になってきました。

相変わらず、しまい忘れた物が見つからないと「娘が盗んだのではないか」と言います。

こんなときの娘の対応が、初診のときよりもだいぶ変わりました。本人の精神状態が不安定になると、娘がハグしてあげるようになったのです。すると、もの盗られ妄想はあるものの、攻撃性は治まりました。

もともと、とても仲の良い親子だったのです。スキンシップがいちばんの薬でした。

進行に伴いぼんやりすることも増えたので、グラマリール®は減量、中止しました。

薬を中止したものの、すり足などの歩行障害や、易転倒性は改善しませんでした。薬剤性パーキンソン症候群だけではなく、認知症自体によるパーキンソン症候群が出現してきたのです。

アルツハイマー型認知症でも、後期に近づくとパーキンソン症候群が出てくる人がいます。

娘は、会社に勤めながら介護をしていました。母親の認知症が進行し、介護が大変になってきたと同時に、会社の仕事も忙しくなりました。

娘は抑うつ的になり、睡眠が取れなくなりました。このため、軽い抗うつ薬であるドグマチール®と、抗不安薬のソラナックス®の服用を開始しました。

しばらくして会社の仕事が一段落すると、抗うつ薬と抗不安薬は必要なくなりました。

母の認知症が重度になる

X+2年、認知症がさらに進行して落ち着きがなくなり、通常のデイサービスでは対応できなくなりました。ケアマネジャーに頼んで、重度の認知症専門の認知症対応型デイサービスに移してもらいました。ショートステイも利用するようになりました。

パーキンソン症候群が悪化して、あるとき転倒して大腿骨頚部骨折しました。一般病院に入院して、人工関節置換術を施行しました。術後、せん妄状態がひどくなり、歩けないのに歩こうとしたり、リハビリテーションどころではなく、認知症専門病院に転院しました。

本人は入院してしまったので、当院への通院は終了しました。

娘の通院は続きました。

精神科病院から一般病院に移る

X+3年、認知症がさらに進行し、精神症状がすっかり消え、ほぼ寝たきりとなりました。誤嚥するので、食事が経口から摂れなくなり、点滴管理になりました。このため、一般の療養型病院に移りました。

娘の通院は続いており、「母が生きているだけで嬉しい」と言っていました。

間もなく嚥下性肺炎を繰り返して呼吸不全になり、本人は帰らぬ人となりました。本人の容態が悪くなったころから娘も体調を崩し、風邪が治らないなど免疫力が低下しました。

娘は会社を休んで、自宅で療養していました。

X+4年、本人の他界後、約1年して、娘はやっと体調が元に戻ってきて、職場に戻ることになりました。

そのときは、母の死を乗り越えることができたように見えました。薬もいらなくなり、当院の通院も終了としました。

喪失感の再燃

その後しばらく通院はありませんでした。

X+8年、娘が久しぶりに来院しました。
母親の死から5年の月日が経っていました。

娘は60歳になり、定年退職後の再雇用で、やったことのない仕事をしなければならなくなり、仕事が覚えられなくて、気分が落ち込んでいました。

不安感が強くなり、仕事のミスも多くなりました。

眠れなくなり、体力が低下して、風邪を引いてばかりいるようになり、寝込むことが増えました。

ときどき急に発汗するようになり、自分の体臭が臭っていないか心配するようになり、人前で、おどおどしてしまいます。

同じころに、若いときからの親友が亡くなりました。5年間忘れていた、母親が他界したときの喪失感がぶり返しました。

うつ病の治療を開始

食事も食べられなくなり、焦燥感も強く、通勤がつらくなりました。体重は7kg減少しました。

仕事に支障のある症状だったため、薬物療法を開始しました。レクサプロ®という抗うつ薬を処方しました。病気休暇が利用できるというので、休んでもらうことにしました。

産業医とやりとりして、コピーやファイリングなど、他の社員の補助的な業務で復帰してもらうことにしました。

X +9年、なんとか職場復帰できました。

働く意欲がない

親しい友人を亡くし、生きがいだった母の世話もなくなり、自分1人で生きる意味を見失っていました。

職場復帰はしたものの、仕事に行くのが苦痛で、簡単な作業も、嫌でたまらないと言っていました。しかし、自分の老後を考えると、65才まで働かないとなりません。65才まで働けば、そのあとの人生は年金で暮らせます。

60才でいったん退職しているので、退職金はもらっていました。退職金を切り崩し、母と2人で暮らしていた賃貸マンションにそのまま住んでいました。再雇用の給料は低く、家賃の負担が重く、生活はギリギリでした。

安い家賃の部屋に転居することを考えていましたが、親族がいないため、保証人がいません。母と2人で暮らしていた現在の住居の大家が、「終活」の会社を紹介してくれました。何かあったときに保証人の代わりになってくれる会社です。

65才から先の人生が見えない

「退職後はどうするんですか」
私が尋ねると、
「何も考えられません。家族もいないし。自分の後始末だけです」
娘はそう言いました。

それからも、娘は毎月、私の診察を受けに来ました。いつも「会社は苦痛」「早く辞めたい」と言っていました。

少量の抗うつ薬と睡眠薬を服用し、何とか第2の定年まで勤め上げました。

特に趣味もなく、会社と自宅の往復ですが、親友と母親の墓参りは欠かしませんでした。

退職、そのあと

X+11年、ようやく会社を退職することができました。退職してみると、「とても楽になった」とのことでした。

ウォーキングや体操などに取り組むようになり、体力はついてきました。

しかし、人と関わるのは面倒で、通院時に私と話す以外には、誰とも話さないということでした。

X+12年、断捨離を始めました。
古いはがきや着ない洋服を、少しずつ捨て始めました。

X+13年、昔の友だちに連絡を取り、ときどき会うようになりました。ようやく少し、自分の人生を楽しめるようになったのです。

その矢先に、コロナ禍が始まりました。

ほとんど家から出なくなり、睡眠が取れなくなり、精神安定剤を飲む量が増えました。決まった量までにするように、と指導しても、薬が早くなくなります。

以前のように誰にも会わなくなり、孤独な日々を送りました。それでも当院への通院は、きちんと毎月来ていました。

X+14年、めずらしく予約の日に来ませんでした。
その4日後に警察から電話がありました。

本人と連絡が取れなくなったことを心配した大家が合鍵で自宅に入りました。娘はトイレの中で亡くなっていました。この大家は、5年前に「終活」の会社を紹介してくれた人です。

その人の通報で、警察介入となりました。
監察医の所見では急性心不全で、事件性はないとのことでした。

退職後の生活のために、第2の職場で5年間、我慢我慢の人生でした。

退職してから3年。最後の1年は、やっと一人で人生を楽しみ始めた直後から、コロナ禍が始まりました。孤独な1年でした。

精神安定剤の量が増えていたことが気になります。

「母が生きているだけで嬉しい」と言って、微笑んでいた顔が忘れられません。

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西村知香
認知症専門クリニック「くるみクリニック」院長。神経内科医。認知症専門医。介護支援専門員(ケアマネージャー)。1990年横浜市立大学医学部卒業。1993年同医学部神経内科助手、1994年三浦市立病院、1998年七沢リハビリテーション病院、2001年医療法人社団・北野朋友会松戸神経内科診療部長を経て、2002年東京都世田谷区に認知症専門のくるみクリニックを開業。