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1 はじめに

みなさんは、境界性パーソナリティー障害(BPD)という精神科の病名をご存知でしょうか? ドラマや映画、小説などの作品で取り上げられることもあるため、精神科医療に直接携わっている人でなくとも、一度は耳にしたことがあるかもしれません。10代から30代の若い女性に多く、空虚感や死にたい気持ちを慢性的に抱え、リストカットや過量服薬、過食・嘔吐などの自傷行為を繰り返す精神疾患です。

従来、境界性パーソナリティー障害は純粋なこころの疾患と考えられていましたが、近年は、注意欠如・多動症(ADHD)といった発達障害が背景に存在しているケースが多いことや、気分が躁とうつという形で顕著に変動する躁うつ病との関連が指摘されており、疾患の概念自体のとらえ方にも変化が生じてきています。

2 BPDにおける自傷行為

私は精神科医としてBPDの患者さんと接する機会が少なくないのですが、臨床の現場で診療にあたっていると、上述した発達障害や気分障害との関連に加えて、BPDの患者さんたちのこころには明らかな特徴があることに気付かされます。それは、こころがものすごく繊細で傷つきやすいということです。

BPDの人は繊細で傷つきやすいこころを持っているがゆえに、生きていくなかで、傷ついたこころが壊れてしまうかのような強い不安をつねに抱えていて、その不安から逃れるために意識的か無意識的かを問わず、さまざまな方法を取らざるを得なくなっているように思えます。

そうした方法の一つとしてよく知られているのが、リストカットや過量服薬、過食嘔吐といった自傷行為とよばれる行動です。こうした方法を取らざるを得なくなる背景には、こころが非常に繊細であることで感じる生きづらさや、生きていることの意味を実感することができない空虚さが存在しています。生きづらさを紛らわしたりこころの隙間を埋めたりするために、アルコールやギャンブルなどに依存せざるを得なくなる依存症の患者さんと共通するものがあります。

3 自傷行為の依存性

リストカット(以下、リスカ)は、カッターナイフなどの刃物で手首を切りつける自傷行為で、切りつける範囲が手首を越えて前腕に広がっている場合にはアームカットよばれます。リスカに走る理由はさまざまですが、自殺を直接の目的としているというよりも、痛みを感じたり血を見たりすることで生きている実感を得られたり、辛い感情や現実の記憶をリスカによる痛みで紛らわすことができたりすることが目的となる場合があります。

私が出会ったある若い女性患者さんは、リスカが続いていることによる自殺のリスクを心配した私に対して、「リスカは死ぬためじゃなくて、生きるためにやっていることですから」という印象的な発言をされました。生きたいという強い意志と、リスカなしではやっていくことができないという生き辛さが同居している言葉で、リスカを続けざるを得ない心理を的確に言い表していると思います。

このように、リストカットには生きづらさや空虚感を背景に生じた辛い気持ちに対するストレスコーピング(ストレスの解消方法)の側面があり、闇雲に止めさせることはやり場のない感情のはけ口がなくなり、かえって死にたい気持ちを高めることにもつながりかねないため、近年の臨床場面では、リスカ自体をただちに止めさせるべき悪い問題行動として否定的にとらえることはしなくなってきています。

ただし、リスカには行為自体に依存性があり、それなしでは生きられないような状態にまで依存してしまう可能性もはらんでいます。どうしてそうなるかというと、自傷を繰り返している人では、自傷直後に血液中の脳内麻薬様物質の濃度が上昇するため1)、繰り返されるうちに麻薬と同じ耐性を獲得し、それに伴って当初と同じ効果を得るために自傷の頻度や強度を高めざるを得なくなってしまう傾向があるからです2)。

また、BPDにおける自傷行為としてリスカと同様に多く見られるのが、過量服薬(以下、OD)です。ODとは規定されている常用量を超える量のお薬を内服することで、不安を鎮める作用のある抗不安薬や、不眠に対して使用される睡眠薬など、精神科で処方されるお薬がODの際に使用される薬剤の多くを占めています。

精神的な苦痛を感じた際、その苦しみから逃れるために大量のお薬を一気に飲んでしまうことが多く、呼吸が止まってしまうなど生命の危険に及ぶリスクがあるため、ただちに医療機関で手当てを受ける必要があります。そのほか、一部の市販されている咳止め薬も大量に飲むと高揚感や多幸感を得られるなどの理由から依存に陥ったり、衝動的にODに及んだりするケースがあります。

そのほか、過食・嘔吐も自傷的な行動の一つとしてしばしば認められます。BPDの人は、虚無感を感じたりむしゃくしゃした気持ちになったりした際に、衝動的にむちゃ食いをして、その後に口に指を入れて吐くという行為に及ぶことがあります。

こうした自傷行為は一次的には辛い気持ちから逃れられる面があり、当人にとってのメリットとして働くことがありますが、繰り返すうちに行為がエスカレートしていき、最終的には自傷行為なしでは生活できなくなるなど、アルコールやギャンブルなどの依存症と同じ転帰をたどっていくことになります。そして、BPDの人がこうした自傷行為に及ぶ背景には、繊細すぎるこころが生んだ心理的な葛藤が存在しているため、行為自体をただ止めさようとするのではなく、それに至った心理的背景に対するケアが必要不可欠となります。

4 おわりに

冒頭で境界性パーソナリティーは精神科の病名であると述べましたが、繊細なこころを持ち、それがゆえに職場や学校、家庭のなかで生き苦しさを感じ、不安や空虚さに日々さいなまれている人は、精神科を受診したことのない人のなかにも大勢いると思います。そうした状態が続いていくなかで、こころが限界ギリギリまで追い詰められたときには、行き場のない感情を自傷的な行為で発散せざるを得なくなる場合もあるのではないでしょうか。実際、一般の中学・高校生を対象とした調査において、約1割の中高生(男子:7.5%、女子:12.1%)に刃物で故意に自分の身体を切った経験が認められていたという報告もあります3)。

つまり、BPD患者さんの心性(心の特徴)の一部は精神科を受診したことのない健常者といわれる人のこころのなかにも確かに存在しているといえそうです。私自身もBPDと診断される患者さんと接していると、ときにBPDの人の心性と自分自身のこころの動きとの連続性について、はたと思い当たることがあります。

一般に、自傷行為を含めたBPDの治療全般には、ほかの精神疾患と比べても非常な困難が伴います。理由はさまざまですが、一つには、私たち人間が、どんなに努力しても生きていくなかで感じる苦しさや不安から決して完全には逃れられないことと関係しているように思います。

私たちは生き苦しさや空虚感を乗り越えるために、実にさまざまな方法をとっています。仕事に没頭したり学校の勉強や部活をがんばったりすることに生き甲斐を見出そうとすることもあれば、恋人や友人をつくって精神的な孤独を紛らしたり、趣味や社交に没頭して辛い現実から距離を置く時間をつくったりする場合もあると思います。お酒を飲んで発散したり親しい人に悩みを愚痴ったりすることも多いでしょう。

しかし、そうしたさまざまな方法のなかに確実な有効性を示す絶対的な解決法はなく、自分自身を含めた多くの人は試行錯誤や失敗を重ね、日々傷ついて不安を抱えながらもなんとか生き抜いているのが現実だと思います。BPDの人の治療においては、安易に正解や解決を求めず、患者さん自身の成長を見守りながら長期的にサポートしていく姿勢が医療者には求められますが、患者さんの診療に日々携わっていくなかで、それは私やみなさん自身の生き方にも共通することだと実感しています。

<参考文献>
1)Alloio, CJ.et al.Raised plasma metenkephalin in patients who habitually mutilate themselves.Lancet.2(8349),1983,545-6.
2)松本俊彦.自傷行為の理解と援助.精神神経学雑誌.114(8),2021,983-9.
3)Matsumoto,T.et al.Self-injury in Japanese junior and senior high-school students : Prevalence and association with substance use.Psychiat Clin Neurosci.62,2008,123-5.

プロフィール:中村 暖
昭和大学附属烏山病院精神科 医師

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