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親が認知症になって、介護をするようになり、生活が変わってしまう人がいます。趣味や交際をやめてしまう、仕事を辞めてしまう、家族と別居してしまうなどいろいろあります。そして、介護が終わると自分の人生に戻っていくのが普通です。しかし、戻れない人もいます。戻れなくなった人は、どうなるのでしょうか。

CASE 030
77才女性

ある人が、当院を受診しました。認知症で通っていた人の娘です。

娘も、以前からときどき脳の検査のために当院を受診していましたので、いつも通り診察しました。診察が終わると、「少しお話ししてもよろしいでしょうか」と切り出しましたので、話を聞きました。

「じつは、弟のことなんですが……。もう、関わるの嫌なんです」

その人の弟も、当院の通院患者さんです。以前には、この姉弟で認知症の母親を介護していました。姉弟のあいだに何があったのでしょう。

これまでの経過

X-28年、夫と死別しました。一人暮らしになりました。娘は嫁いで別居しています。息子も結婚して、別に所帯を持っていました。

X-24年、もの忘れするようになり、「泥棒が入る」と訴えたり、「向かいのアパートに住む親子が夜中に侵入してくる。2人で部屋の前でぼそぼそ話している声が聞こえる。合鍵を持っているようだ」などの妄想になりました。本人は警察に頻繁に相談に行きました。もの盗られ妄想です。

その話を本人から聞かされた娘は、当初は本当に向かいの親子が泥棒に入っていると思い、心配していました。最初は「通帳や印鑑を盗まれた」と言っていたのが、「パジャマを盗られた」と変化してきたのを聞き、違和感をもちました。

また、「泥棒が電話してくるから」と言い、電話番号を変更し、電話してもつながらなくなりました。「合鍵を作られた」と鍵を取り替えたので、訪問しても家に入れなくなり、家族が困るようになりました。

記銘力障害、見当識障害、遂行機能障害

X-18年、記銘力障害が徐々に悪化し、もの忘れのスパンが早まり、同じことを何度も言うようになりました。約束をしても忘れるようになり、待ち合わせできなくなりました。自分の年齢を間違えるようになりました。過去の記憶も曖昧になり、出来事の時系列が前後するようになりました。

X-17年、時間的見当識障害が出現し、日付や時間がわからなくなりました。食材の管理ができなくなり、冷蔵庫内で腐っています。調理中の火の消し忘れも増えました。遂行機能障害(実行機能障害)が出現し、料理は得意なほうでしたが、メニューが単純になり、下手くそになりました。

妄想で困り受診

X-15年、泥棒騒ぎがひどくなったため、困った娘に付き添われ、当院初診されました。調理や食材管理ができなくなったので、娘が介護サービスを入れようとしたところ、「子どもたちがお金を狙っている」と言い出しました。

金銭の支払いができなくなり、通販で買ったものの代金を払いません。

情緒が不安定になり、怒りっぽく、わがままで、どんどん頑固になってきました。暴言も吐きます。一方、疲れるとぼんやりするようになり、話しかけても反応しません。人に干渉されることを嫌い、ヘルパーサービスを拒絶しています。

本人は警戒心が強く、記憶力の検査などは難しい状態でしたが、「脳梗塞がないか調べましょう」と言うとMRI検査は受けることができました。

頭部MRIでは、大脳のびまん性萎縮が見られ、虚血性変化はなく、海馬の萎縮もみられました。神経学的所見ではパーキンソン症候群はなく、医師に対して愛想が良く、アルツハイマー型認知症の可能性が高いと考えられました。

本人には、「脳梗塞が見つかった」と嘘を言い、精神症状に対しては抑肝散、認知症の進行予防にはアリセプト®︎を開始しました。

薬の管理ができない

独居なので薬の管理は本人が行いましたが、一度に2日分飲んでしまった日もあり、管理に問題がありました。娘に薬カレンダーを買ってもらい設置しましたが、せっかく設置しても病識がないので、本人がそのカレンダーを薬ごとどこかへ片付けてしまいました。

ケアマネジャーに相談し、ときどき訪問して服薬確認してもらうことにしました。最初の薬カレンダーは本人がどこかに隠してしまったので、再度、薬カレンダーを設置しました。ヘルパーが確認に入るようになり、今度は内服できるようになりました。服薬がきちんとできるようになると不安感や猜疑心が改善し、すっきりした表情になりました。気持ちが落ち着きました。娘だけでなく、息子もときどき訪問していましたが、息子から見ても、以前より落ち着いたと言うことでした。

甘いのもが好きになる

X-14年、偏食になりました。甘い物ばかりたくさん食べます。菓子パンをいっぺんに3つも4つも食べます。買ってきて部屋に溜め込んでいるので、娘が訪問時に古いパンを廃棄したところ、本人が怒ってしまいました。目を離した隙にこっそり捨ててもらうことにしました。

ヘルパーが入ることに拒絶が強く難渋しました。これについては、「法律で高齢者の家にヘルパーがすべて入ることになった」という嘘をついてもらうことにしました。

尿失禁が出現し、尿取りパットを使ってもらうようにしました。

診察時の様子は、医師が本人に対しいろいろと話しかけても、ほとんど話が入らず、本人は言いたいことだけを言っており、会話がかみ合いませんでした。

息子の関わりが濃くなる

息子も定期的に実家を訪れて、薬の管理に入るようになり、服薬状況はさらに改善しました。しかし、関わりが濃くなったことにより、もの盗られ妄想のターゲットになってしまいました。銀行のカードを立て続けに3枚紛失し、「息子が盗った」と言っていました。本人から責められて、息子が困っていました。

気温がわからなくなり、暑さや寒さを感じなくなりました。行動範囲が狭まり、決まった店にしか行けません。前年まで参加していた歌のサークルに行かなくなりました。

通院を極端に嫌がるようになり、なだめたり、すかしたりしないと通院できなくなりました。出がけに保険証を探して、見つからないと「もう嫌だ」と言って通院を渋ります。

薬カレンダーで薬が飲めていましたが、徐々に曜日が認識できなくなり、その場で指示しないと飲めなくなりました。曜日がわからないので、ゴミ出しの日がわからず、朝になると息子に対して10回ぐらい電話で確認してきます。

何度か失敗しましたが、やっと診察に連れてくることができました。本人は診察室に入ると急に愛想が良くなり、取り繕います。いかにもアルツハイマー型認知症という印象です。ついてきた娘も息子も、その姿を見てがっかりします。「いつもはこんなじゃないんですよ。家にいるときは、本当にたいへんなんです」。

息子は、ときどき泊まり込んで介護するようになりました。物が見つからないと息子を責めます。突然キレて怒り出すことも増えました。

胃腸炎

その年の冬、ひどい胃腸炎に罹患しました。嘔吐と下痢を繰り返し、ぐったりしていたのを息子が見つけて救急車を呼びました。入院先の病院で、自分がどうしてここにきたのかわからなくなり、点滴を自己抜去し、病棟内を徘徊しました。

入院中に娘が家の中を片付けました。冷蔵庫の中を掃除したところ、賞味期限切れの腐った食材がぎっしりと入っていました。管理できていませんでした。このような食品を食べて胃腸炎を来したものと考えられました。

息子がときどき泊まっていましたが、冷蔵庫の管理はできていませんでした。本人が「ちゃんと自分で管理して、食事も自分で用意できている」と主張して、ヘルパーや息子が冷蔵庫を見るのを断固として拒否していたからです。

退院にあたり、「国の施策で、無料でヘルパーが来てくれる」と嘘をついて、ヘルパーを増やし、毎日入ってもらいました。毎回、ヘルパーが冷蔵庫を確認すると、寿司折りや生肉など、腐りやすい物がぎっしりと入っていて、果物には虫がわいていました。目の前で廃棄すると怒るので、本人が見ていない隙にこっそり廃棄してもらいました。

判断力を失う

台風で外出を控えるように言われていた日に出かけました。悪天候でも平気で外に出るようになりました。

電話機が使えなくなりました。食欲がなくなり、体重が減少してきました。疲れやすくなり、怒りっぽさが増しました。

娘は、ケアマネジャー、ヘルパー、保健師、地域包括支援センターの担当者などに相談に乗ってもらいながら援助していました。そして、腐ったものを食べて入院したことや、台風なのに出かけてしまったこと、生活に必要な道具が使えなくなったこと、体重の減少などを受け、有料老人ホームへの入所を検討し始めました。しかし、息子は「まだ自宅で介護したい」と言い反対しました。

中期から後期へ

X-13年、診察室で会っても主治医の私の顔は忘れており、通院が初めてのように思っています。薬を拒絶して「こんなにたくさん薬を飲みたくない!」と言います。この頃は、アリセプト®︎と降圧薬を飲んでいましたが、誰かが促さないとまったく飲まなくなっていました。息子が訪問した日は、目の前で指示して飲ませていました。

アリセプト®︎の副作用か、アルツハイマー型認知症の症状でか、体重が徐々に減少してきました。いまだにもの盗られ妄想があり、「指輪を盗られた」など日常的に訴えていました。
娘は、グループホームを探し始めました。

徐々に子どもっぽくなりました。調理は塩しか使わなくなりました。近所のコンビニから帰れなくなりました。場所的見当識障害の出現です。薬を飲み忘れるのではなく、何度も飲んでしまうようになりました。

悪化してきたので、アリセプト®︎を10mgに増量しました。

浪費、躁状態

通販でたくさん買うようになり、段ボール箱で何箱もの食品を購入するようになりました。食品を大量に購入する一方、食べる量は減り、体重もさらに減少しました。栄養状態が悪くなり、皮膚炎を来すようになりました。

ときどきテンションが上がり、見るとギョッとするような派手な化粧をします。その顔であちこち出歩きます。口が達者になり、診察中も元気がいいです。躁状態です。通販で高額なものをたくさん買ってしまいます。カニなど、食べもしないのに大量に買います。冷蔵庫に入りきりません。預金が底をつきました。

アリセプト®︎を増量したせいかもしれないので、アリセプト®︎をいったん中止しました。当時は抗認知症薬がほかにありませんでしたので、しばらくしてから以前の5mgを再開しました。少し落ち着きました。

デイサービスの導入

X-12年、送り出しヘルパーを利用し、デイサービスに通所させることになりました。

年齢を聞くと「74歳」と言います。認知症を発症する前の歳です。そこで止まっています。ヤカンの空焚きがあり、ヘルパーが発見しました。食事したことを忘れ、何度も食べるので、お腹を壊すことが増えました。軟便が続いていました。お金を渡すと使い果たしてしまいます。

X-11年、ヘルパーが徹底的に冷蔵庫を整理するようになり、胃腸炎を起こすことがなくなりました。腐ったものを食べなくなったからです。夏になってもセーターを着ていました。暑さや寒さの感覚がわからなくなったのです。

頭部MRIを行ったところ、初診時に比べて海馬の萎縮が進行してきていました。

昼夜逆転してきました。体重も減少しました。排泄の失敗が増え、室内に便が落ちていることが出てきました。本人は以前に比し多幸的になり、被害妄想などはなくなり、ケロッとしています。4年前の初診時に比べると、体重が15kgも減少していました。食事量はさほど減っていないと言います。消化吸収の機能低下もあると考えられました。

ケアマネジャーが入所を勧める

X-10年、ケアマネジャーが「そろそろ在宅生活での一人暮らしは、難しいのではないか」と、私に連絡をしてきました。娘も施設を探していましたが、経済的に苦しく、なかなか見つかりませんでした。

すぐには施設が見つからないので、ケアマネジャーはガスコンロや調理器具をIHに変更するなど、火の不始末への対策を提案しました。また、食事摂取不良による体重減少についても問題になりました。私とケアマネジャーで、通所介護で食事を摂ること、配食サービスを受けることなど検討しましたが、いずれも本人の拒絶で導入はできませんでした。

ヘルパーは入れていたので、ヘルパーによる食事の支度、食べさせることを検討しました。しかし、本人が受け入れるヘルパーが限られた人だけであり、現実的ではありませんでした。誰でも受け入れられる人ではなかったのです。

息子は母親寄りの考え方で、現行のサービスを変えるつもりはありませんでした。一方、娘は私やケアマネジャーの勧めにより、手厚くサービスを入れたいと考えていました。このころから姉弟は対立してきました。

ADLのすべてに介護が必要

入浴、洗髪、洗身もおぼつかなくなり、ヘルパーが訪問したときだけの世話では生活を支えることができなくなりました。息子はほぼ完全に同居となっていました。妻とは別居状態です。仕事も辞め、ほぼ移り住んできたようになりました。息子がいるようになっても、本人の記憶にはなく、息子の顔を見るたびに「いたの?」と毎回驚きます。

夜間目が覚めると知り合いに電話をかけてしまい、相手に迷惑をかけるので、息子が電話線を抜きました。自宅冷蔵庫の管理も息子が徹底しました。ほぼ空になった冷蔵庫を見て、本人は外に出て近所の畑から野菜を持ってきてしまうようになりました。朝は着替えなくなりました。一日中寝巻きで過ごします。

徘徊が始まりました。息子が目を離した隙に出て行き、警察に保護されます。度重なると、警察の担当者は引き取りに来た息子に対して「在宅生活は難しいのでは」とアドバイスしてくれましたが、息子は受け入れませんでした。

何度か徘徊するうちに、かなりの遠方で保護され、パトカーで送ってもらうことも出てきました。息子は、本人が出られないようにチェーンをかけて玄関を開けられないようにしました。高齢者虐待防止法では虐待にあたる行為です。

本人は寂しいのか、野良猫に餌付けするようになり、家の中に猫が勝手に入ってくるようになりました。猫は家の中の至る所に排泄するようになりました。本人もトイレの場所がわからなくなり、台所や玄関で排泄するようになりました。室内に落ちている便が、本人のものか猫のものかわからないような状態になりました。

息子は、掃除に追われるようになりました。

後期の症状が出現

鏡に映った自分が認識できなくなり、話しかけるようになりました。鏡現象です。アルツハイマー型認知症の症状のなかでも後期に出現する症状です。

X-9年、徘徊防止のためのチェーンを乗り越え、久々に徘徊しました。「母が呼んでいる」と言っていたそうです。実母はとっくに他界しています。警察が保護して連れ帰りました。

同居の息子は献身的に介護していましたが、負担は徐々に増して、イライラが抑えられなくなりました。大好きな母なのに、怒鳴りつけてしまいます。娘が訪問しても、娘の顔がわからなくなりました。会話は成り立たなくなりました。

初めて利用したショートステイでは、失禁がひどく、リハビリパンツの使用を開始しました。ショートステイ中にも、トイレ以外での排泄が見られ、廊下や室内で排尿していました。

食べ残した食品を棚にしまい込んでおり、息子が見つけたときにはウジがわいていました。もはや、生活を管理しきれなくなっていました。

息子の介護うつ

それまでヘルパーを利用していましたが、息子が実質同居状態になっているので、ヘルパーは打ち切られることになりました。

このようなことが立て続けに起こり、息子が抑うつ状態になり眠れなくなりました。昼間もフラフラしており口渇が出てきました。介護うつです。息子自身に診察に来てもらいました。診察室で、イライラしていて話がまとまりません。同じ話を繰り返して、医師のアドバイスが入りません。また突然自責的になり、「心が苦しいです」と言います。

息子は在宅介護にこだわっていましたが、娘と私で説得し、母を特別養護老人ホームに入所させました。

うつ状態になった息子の治療が必要と考えられ、カルテを作ってもらいました。睡眠が取れていなかったため、マイスリー®︎を処方したところ、眠れるようになりました。イライラ止めとしてレキソタン®︎を頓服として処方しました。

母親は特別養護老人ホームに

X-8年、娘が特別養護老人ホームに面会に行っても、娘を認識できません。息子の顔はわかります。会うと「帰りたい」と言います。ときどき介護を嫌がり、機嫌が悪くなって怒鳴ることがありましたが、ホームで介護できないほどではありませんでした。

息子のほうは、母親が特別養護老人ホームに入ってから介護のストレスがなくなり、いったん落ち着きました。母親が入所するまでは母親が住んでいる実家にほとんど泊まり込んで、半同居のような状態でしたが、自分の家に戻り、仕事にも復帰しました。

しかし、長らく別居状態だった妻とはうまくいかなくなっていました。それが新たなストレスになっていました。

その後の数年間、息子は数カ月に1度くらい、マイスリー®︎やレキソタン®︎を処方してもらいに、間欠的に当院に通院していました。

施設に入れたことを悔やむ

X-4年、息子が妻と離婚しました。いまだに母親を特別養護老人ホームに入れたことを後悔しており、毎日繰言のように聞かされていたようです。妻は愛想を尽かしてしまいました。息子は、母親が入所してから空き家になっていた実家に転居しました。

このころから抑うつ状態が再燃しました。出勤できなくなり、仕事を辞めました。抗うつ薬の服用を勧めましたが服薬を嫌がり、治療につながりませんでした。仕事を辞めたので、経済的な理由もあるようでした。

飲酒が増えました。最初は眠るために飲み始め、徐々に飲んでも眠れなくなり、酒量は増えていきました。

X-3年、いつまで経っても社会復帰できないので、焦燥感が強くなりました。食欲が低下し、体重が減少しました。飲酒だけでなく、喫煙も増えました。疲労感が増し、午前中に起きることができなくなりました。

自立支援医療制度を利用開始

収入がないので自立支援医療を申請してもらい、薬代の負担を軽減しました。抗うつ薬を処方してもお金がかからなくなったので、治療を開始することができました。

しばらくすると気分が改善し、自宅で細々と個人事業を始めることができました。

X-2年、「実家は、母親に死ぬまで住んでもらおうと思ってリフォームしたし、ずっと家で介護したいと思っていたのに、特別養護老人ホームに入れてしまった。いまでも納得できない」と、介護うつで介護ができなくなったときのことを忘れたのか、診察のたびに語るようになりました。

喉元過ぎるとなんとやらで、当時の自分や母親の状態はすっかり棚に上げています。私と娘とで、「もう介護は無理だからホームに入れましょう」と説得したことが、いまでも納得できないのです。

「母を施設に入れたことで、後悔の気持ちが強いから、『また家で介護したい』と、姉に何度も相談を持ちかけましたが、姉はまったく相談に乗ってくれません」と言います。

「あのときは、お母さんを施設に入れるのがいちばんいい方法だったのです。他に選択肢はありませんでした。あなたも共倒れになっていたところだったのです。いま、お母さんはホームで元気に幸せに暮らしているのだから、受け入れましょう」と、私がそう話しても、受け入れる様子はまったくありませんでした。

経済的に困窮

X-1年、母親を特別養護老人ホームに入れたことをくよくよ考えるうちに、仕事が手につかなくなりました。細々と行っていた個人事業にも支障を来すようになりました。収入が途絶え、再度、経済的に困るようになりました。

経済的に困窮すると、より一層ストレスが高まり、恐怖や不安感が強まりました。仕事ができないこと自体が、ストレスになっていました。このため、すでに取得していた精神障害者手帳を活用して、障害者枠での就職を勧めました。しかし、本人のやる気は出ず、就職できませんでした。

X年、突然、寝ても起きてもいられなくなり、「救急車を呼びたい」と姉に電話してきました。体重が急激に減少しており、衰弱していました。

やむなく自宅近くの精神科病院に入院してもらいました。入院中に薬剤調整したところ、うつ状態が改善し、体重も徐々に戻り、自宅退院になりました。退院にあたっては、精神科訪問看護を導入することになりました。

退院後は、再度当院外来に通院を再開しました。

母親の危篤をきっかけに

しばらくは訪問看護を利用しながら、自宅で落ち着いて暮らしていました。

その数カ月後に危機が訪れました。ソワソワした様子で診察室に入ってくるなり、開口一番「母が緊急入院しました」と言うのです。特別養護老人ホームに入っていた母親が心不全になり、入院したのです。強い不安感があり、落ち着きをなくしていました。

「お母さんは、ちゃんとした病院で治療を受けています。心配しないで、見守ってあげましょう」と話しましたが、動揺はおさまりませんでした。

特別訪問看護指示書

1カ月後、訪問看護師から連絡が入りました。特別訪問看護指示書を発行してほしいと言うのです。どう言うわけなのか、詳しく聞きました。本人は診察時には私に話しませんでしたが、飲酒量が増えていたようです。その日は朝から飲酒して、酔った状態で買い物に行きました。階段を踏み外して足を骨折し、歩けなくなっていました。母親の病状が思わしくないので、不安を紛らわすために飲酒量が増えていたようでした。

「足が痛い、歩けないから入院したい」と言い出しました。飲酒量だけでなく、喫煙量もさらに増えました。訪問看護師は頻回の訪問でカバーできると考えていました。しかし、本人はまた「入院したい」と言い出しました。

姉に関わりを断られ

骨折して動けないので、入院してもらうには手続きなどを誰かに手伝ってもらわなければなりません。姉に援助を求めました。すると、久々に姉自身が「私も自分の脳が心配なので見てください」と受診しました。頭痛や物忘れ、そして疲労感を訴えていました。疲れた様子でした。過労と思われました。軽いうつ状態の症状です

幸い、脳に異常はなく、「大丈夫ですよ」と説明しました。

「少しお話ししてもよろしいでしょうか」と娘が話を切り出したので話を聞きました。

「母が危篤で、入院しており、私が全部面倒を見ているんです。弟に手伝ってもらいたくても、朝から酒ばかり飲んで、会えば『あのとき施設に入れなければよかった』となじってくるばかりです。相談になりませんでした。そのうち、酔って階段から落ちて、骨折したら、今度は『姉貴、なんとかしてくれ』と頼ってくる。自分勝手なんです! もう限界です。本当に嫌なんです。もう弟の面倒は見たくありません」

「それは、さぞかしたいへんでしょうね。お姉さんが関わらなくても済むように、訪問看護師と相談して、入院先探し、ベッドの手配は当院の相談員が行います。お姉さんは、お母さまの世話に専念してください」と伝えると、安堵したようでした。

当院で入院を手配

相談員が、以前の入院先に電話をかけて相談したところ、幸い、間も無くベッドが見つかり、入院できました。これで骨折が治り、断酒ができて、少しでも改善して帰ってきてほしいものです。

退院後も訪問看護を続ける方針としました。
やがて必ず訪れる、母親との別れを支えて行くために……。

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西村知香
認知症専門クリニック「くるみクリニック」院長。神経内科医。認知症専門医。介護支援専門員(ケアマネージャー)。1990年横浜市立大学医学部卒業。1993年同医学部神経内科助手、1994年三浦市立病院、1998年七沢リハビリテーション病院、2001年医療法人社団・北野朋友会松戸神経内科診療部長を経て、2002年東京都世田谷区に認知症専門のくるみクリニックを開業。