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1.はじめまして。薬物依存症だったトッチーです(今もしっかり?)!

僕は東京都小平市で4人家族の長男として生まれ、現在50歳です。バツ1で前妻と今の妻の間に娘がそれぞれ1人います。21歳で覚せい剤にハマり、あらゆる薬物に手を出した末に29歳で栃木ダルクに入寮。3年間の寮生活を経て卒業後は職員として働き、翌年からは宇都宮で施設長になりました。それから16年間、ダルクの業務以外も含め栃木県内で依存症にかかわるさまざまな活動をしてきました。
そして、昨年11月に長らくお世話になった栃木ダルクを退職し、今年2月に妻の地元である熊本県で「ひごのいえ」という回復支援施設を開所しました。

30歳からクリーンに生きるようになって20年。自分の回復の過程を初期から中期、そして後期と振り返ってみると、回復を始める前のいわゆるウニウニ期がいちばん大切であったように感じます。文章を書くのは得意ではありませんが、いつもお世話にもなっている常岡先生からせっかくご依頼いただいたので、自分なりの思いを綴ってみたいと思います。

2.愛されて何不自由なく育った少年時代

僕の父は東京都の水道局職員として定年まで勤めました。若いころは学生運動、社会に出てからは労働運動に力を入れ、社会的に弱い立場の人には寄り添っていたようですが、家にはあまり帰ってこない父でした。遊んでもらった記憶もないし、教わったのは人の殴り方くらいです。
母は病院の事務を長年務めた後、言語療法士をしていました。働きながら家事や子育てをし、さらに、多趣味だったので能面を彫ったり、フルートを習ったり、お茶を習ったり。文句を言いながらも自分の人生を楽しんでいました。

小学生のときにはわが家に警察が踏み込んできたり、なかなか変わった家庭ではありましたが、僕には愛されて育ってきた記憶がたくさんあります。両親のこともずっと好きでした。小学1年生からやりたいと始めたサッカーは社会人まで続けさせてもらったし、小学4年生から6年間バイオリンを習い、高校に入ると母親の希望もあってチェロを3年間習いました。性格的には明るいほうで、勉強は好きではなかったけれど成績はずっと中の上くらい。友達も多かったので、楽しい学生生活でした。

3.誘われて使った覚せい剤から薬漬けの日々へ

大学を中退して社会人になり、21歳のときに会社の上司や先輩からしつこく誘われて使ってみた覚せい剤が最高によくて、すっかりハマってしまいました。そして、せっかくヤクチューになったからには世のなかにある薬物を全部使ってやろうと、自分の身体で人体実験しながら20代は薬漬けの日々を過ごしました。
30歳を目前にしたころには借金は膨らむわ、薬や暴力は止まらないわ、仕事は続かないわの八方ふさがり。離婚して居場所も人間関係もなくなってガサがくるというわかりやすい絶望を味わい、どうしようもなくなって29歳の終わりに栃木ダルクの門を叩き、絶対に嫌だった入寮という形を受け入れました。

それまでにもクリニックやNA(ナルコティクス アノニマス)に通い、生き方を変えないと幸せになれないと言われ続けてきたし、自分でも半分くらいはわかっていました。でも、薬をやめたくなかった。やめたほうがよさそうだけど、ここでやめたら男がすたるというか、つまらない男になってつまんない人生を送るはめになっちゃうなって。1回しかない人生なのに、おじいちゃんになったときに振り返って穏やかで幸せな人生だったなーなんて思いたいわけないじゃん、25歳くらいまで太く短くやりたいように生きて死ねたらそれでいいじゃんって思っていたんです。

でも、気付けばもう30歳近くまで生きちゃってるし、この後の余生は刑務所でも精神病院でもいいのよってかっこつけてる半面、やっぱり刑務所に行くのは怖いし。自分のなかで気持ちがぐるぐる回ってぐちゃぐちゃになっていました。今思えば、人を否定した分だけ自分が正しいことになるって信じていたり、男は結局腕力でしょ、みたいな当時の僕にとっての男らしさみたいな感覚が、自分の本来持っている優しさや丁寧さを表現したり、新しい生き方を始めて希望を持ったりすることを選ばないように、光に向かって進まないように、つねに後ろから僕を暗闇にひっぱっていました。

4.仲間のおかげで人を認めることができ、目指す将来像が描けるようになった

そんな僕を回復に導いてくれたのはダルクの仲間です。それもかっこいい仲間たち。周りにいるメンバーたちを隙あらば糾弾していた僕でも、かっこいいって思える人がいたんです。
彼らはとにかくおおらかで、僕が何かしでかしても小さいことは黙って目をつぶってくれたし、注意するときも「トッチーはまじめ過ぎなんだよ。遊びいくぞ~」みたいなスタンス。こっちがやっちまったって思ってるときに怒られないと調子狂うんですよね。相手があまりにも笑ってるもんだから、さっきは悪かったなって感じで謝ると「そんなことまだ考えてたの?せっかくのシラフ楽しめよ」って。

単純な僕は、なんてかっこいいんだろうって魅了され、そこからは彼らのいうセリフが一個一個気になるようになったんです。いつか自分のものにしたいから近くにいて、まねるためにとにかく話を聞きました。嫌いだったミーティングがいつしかかっこいい話し方を試す場になり、そうなると、今まで馬鹿にしていたメンバーがなぜ何度も同じ話をするのかわかるようになってきました。
自分を褒めてくれる仲間のおかげで僕は怒らなくなり、仲間と同じように人を褒めるようになりました。仲間が笑ってばっかりいるから僕も笑っていていいんだと思えるようになりました。そして気が付けば彼らだけでなく、多くのメンバーが僕にメッセージをくれる“かっこいい仲間”に変わっていました。

僕の回復をさらに深めてくれたのが、かっこいい大人たちでした。アディクトじゃない大人たちのなかにいる数少ない本気の人たちが僕に普通に接してくれるたびに、このまま回復を続けていけば普通の人として生きていっていいんだと希望を持つことができました。
かっこいい大人たちは仕事が仕事で終わっていないんです。仕事を楽しみ、仕事の意味を自分で作っていく。多くの人がここが限界と仕事の枠を決めてしまうなかで、彼らは限界を超えるためにあがいている。だからアディクトの回復や幸せなんかを信じられるくらいおおらかになれるんです。そして、奇跡を起こしているんです。こういう人たちに囲まれているとなんか幸せだな~と感じるようになって、自分もだんだんオッサンになっていくんだから、どうせならかっこいいオッサンを目指そうと思うようになりました。

5.「今日一日クリーンでいる」を重ねていけば奇跡だって起こる

僕が依存症の回復支援施設「ひごのいえ」を始めてから2カ月がたちました。正直いうと金銭的に余裕はないし、栃木で丁寧に長年やってきた実績も信用も熊本では通用しなくて、うまくいかないことばっかりです。施設に住み込んでいるので妻や娘とは離れて暮らしています。さらに、弟は入院中で、栃木の実家にいる高齢の両親の面倒も見れていません。
それでも僕がクリーンでいることを投げ出さずに生きていられるのは、あのころ出会ったかっこいい仲間とかっこいい大人たちのおかげです。そして、どうしてか僕みたいな人間を信じてくれる人たちがいるんです。いっしょに歩いてくれる人たちがいるんです。応援が毎日届いちゃうんです。そうすると、投げ出すわけにはいきません。苦しくても笑っているしかないですよね。

ダルク時代、シラフで生活するうちに、もっと自由に胸をはって生きるには社会のルールを守ることが必要なんだってわかってきました。クリーンの長さだけで回復を測るのはナンセンスだと思いますが、クリーンでなければ回復は深まりません。どんなに大変でも今日一日クリーンでいる。クリーンを積み重ねていく。それが自信になり、奇跡だって起こることを学ばせてもらったんです。ダルクに来てよかった、依存症になってよかったと今は思えています。
だから僕は大丈夫です。これからも感謝を忘れず焦らず、苦しんでいる人がまた笑えるようになる手助けをしていきたいです。

プロフィール:栃原晋太郎
ひごのいえ

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