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1.謙虚で従順で、でもちょっと困った、愛すべき仲間のような患者さんたち

私は病院が好きではありません。正確にいうと、先生と名前がつく人が好きではありません。一般的に正しいと思われることを押し付けてくるからです。その意味では病院はサイアクです。先生に加えて看護師さんも、健康的、衛生的なことを当然として患者教育を行います。

私は大学で逸脱の社会学を学んでいました。大学院も社会学研究科でしたが相互行為論から家族療法を学び、その流れでソーシャルワーカーとして病院に就職しました。精神神経科の専門病院に7年、三次救急がある総合病院に16年勤務しましたが、患者さんはみな私とは違って、とても謙虚で従順な方たちでした。

誰のせいでもなく、たまたま運悪く病気になってしまい、入院せざるを得なくなり、小学生のような21時消灯、6時起床を強いられ、味の薄い食事を食べ、さらに入院費を払う。患者さんは踏んだり蹴ったりなのに、「先生のおかげです、ありがとうございます」とおっしゃる殊勝な態度に、こちらこそ頭が下がります。

せめて少しでも入院生活が快適になるように、これからの生活が経済的、社会的に立ち行かなくなることがないように、お手伝いできることはないだろうか、自然とそんな気持ちで仕事をしてきました。

あわただしい業務のなかで出会う「体を治してもらったのはありがたいよ。感謝してる。でも、酒を悪者にしてほしくない」「太く短く生きたいんだ。それが俺の生き方。わかってよ」と言うアルコール依存症の患者さんは、なんだか自分の仲間みたいで、困った人ですねえと言いながら内心ニヤリとしていました。

体を壊して消化器科や総合内科に入院されているアルコール依存症の患者さんは、ときとして病棟ルールが守れないことがあります。そんなとき、「私だって21時には眠れないし、スマホだって触りたいよね」と、思ってしまいます。病院という清く正しい場に迷い込んでしまった私にとって、依存症の患者さんは愛すべき仲間のように感じるときがありました。

2.自己決定と命

私には親和性の高い依存症患者さんですが、本人の希望どおりに「酒を悪者にしないで」「太く短く」生きたら、死んでしまいます。愛すべき仲間には生きていてもらいたいのです。そうです、命がかかっているから医師も看護師も必死で飲酒をやめさせようとするわけです。学校の先生に反抗しているのとは訳が違うのです。それはわかっている。けれど矯正/強制されればされるほど、されたくない、それもわかる。

依存症とは離れますが、「こんなに周りのことを考えているのに、うまくいかない。生きているだけで迷惑をかけるし、自分もつらいから死んでしまいたい」「これ以上体重を減らしたら心臓が止まってしまうかもしれない。それはわかっているけれど太りたくない」という人がいます。パーソナリティ障害とか、摂食障害とかの診断がつけられているような患者さんです。彼らも、自己決定に任せていては命を失ってしまう人たちです。

では彼らの意志は単純に病状といってよいのでしょうか。薬で治らない病状とは長く付き合うことになります。その人自身のような、その人らしさになってしまっているともいえます。本人も、そのこだわりを手放したら、自分が自分でなくなってしまう、これが自分の生き方、と思っているのだと思います。

私は誰もが、その人らしく生きられたらいいな、と思っているので、ついわかるわかる、と言いたくなってしまいます。でも認めたら死んでしまいます。でも、あなたの考え方は間違っている、病状に支配されていますよ、とは言いたくない。

3.依存症患者さんとのかかわり

結局、私は仕方なく、ただ話を聞くことしかできなくなってしまいました。そうなんですね、そうですよね、と。そして、「あなたらしく生きてきた、素敵です。でもこのままのスタイルでやっていったら死んでしまうって先生が言っていました。どうしたらいいんだろう」と、私は自分の気持ちをそのまま口にするしかありませんでした。

患者さんも「そうなんだよね、俺だって死にたくはないよ」と。お酒なしで〇〇さんらしく過ごせないですか、と言ってみますが、「酒なしの人生なんて考えられないよ。友だちだって飲み仲間だし」と。患者さんと二人で途方に暮れてしまいました。

私は破れかぶれで、藁にも縋る気持ちで、半ば無責任に「断酒先輩に会ってみませんか」と言うようになっていました。専門職の支援者としてかかわっていながらもノーアイディアで出口なし。次の一手がなく、運を天に任せるような気持ちでした。

しかし、肝機能障害や膵炎で総合病院に入院し、いつの間にか精神科に連れてこられた患者さんにとって、医師からアルコールが原因と説明されたとしても、アルコール依存症の自助グループはアメリカ映画のなかのものです。多くの患者さんは一度、回復者に会ってもらったとしても、その後、なにもなかったように退院していかれました。

4.選択の自由と自己責任

患者さんやご家族は、「自分がアルコール依存症だなんて言われてもそうは思いません。暴れてないですし」「自分の家族が精神病院にお世話になるなんて思ってもみませんでした」「あんなに明るかった人がうつ病になるなんて」「育て方が悪かったのでしょうか」と言い、みなさん、なにが原因だったのか、どうすればよかったのかと考えます。

甘えている、弱い、同じ兄弟姉妹でもマトモに育っている人もいるじゃないか、悪い友だちが周りにいたせいだ、など原因をなにかに求めがちですが、長年、医療現場で仕事をしてきて思うことは、生物学的(遺伝子など)、心理学的(物事のとらえ方など)、社会学的(生活環境など)な条件が相まって精神疾患は発症するんだなあ、ということです。

逆にいうと、この三つの要素が補い合うことで、かろうじて健康に過ごせているということでもあります。ストレスに弱い遺伝子を持っていたとしても環境がよければ発症しないですむこともあるでしょうし、どんなに過酷な環境でも、物事のとらえ方がおそろしく前向きならば乗り切れることもあるでしょう。同じ量のアルコールを同じ頻度で摂取したとき、依存症になる人とならない人がいるのは、生まれもった体質や考え方や境遇が人それぞれ違うからです。

戦後の経済復興を経て、職業選択の自由が謳われて久しい現在の日本社会は、すっかり個人の選択の自由が保障され、そのぶん、結果は自己責任という雰囲気になってきています。でも実際、遺伝子、物事のとらえ方、生活環境を選択する自由はどの程度あるでしょうか。

遺伝子以外は一見選べるようですが、自分のこととして考えてみたとき、実際にどの程度、物事のとらえ方や生活環境を変えることができそうでしょうか。そう考えると、依存症に限らず、うつ病にしろ、統合失調症にしろ、摂食障害にしろ、パーソナリティ障害にしろ、発症せずに今日まで来られたことは、ラッキーというしかありません。

もちろん確率を減らすことはできます。生牡蠣を週1回食べている人は、年に3回しか食べていない人と比べれば、牡蠣にあたる確率は高いでしょう。毎日飲酒している人のほうが依存症になる確率は上がるので、週1回の飲酒に頻度を下げればよいのに、というのはもっともな意見ですが、それ以上の責任は本人にはないと思います。

人間は社会的な生き物であり、個人は必ずどこかで社会とつながっています。部屋にひきこもっているとしても、そのような人ほど社会の目を自分のなかに取り込んでいるように見えます。日本の社会はまだまだ、物事のとらえ方、生活環境が自由とはとてもいえないと思います。社会から求められてきた(強いられてきた、断れずにきた)部分が大きいにもかかわらず、結果は自業自得という言い方をされるのは気の毒だなあと思います。

5.医療ソーシャルワーカーとしての私

正直、フィールドワークのつもりで入った医療現場ですが、まさにハマって抜け出せなくなって23年もの時間が過ぎていました。

振り返れば、心ある医師、看護師、作業療法士などたくさんの病院職員との出会いがありました。大好きなお医者さんも、看護師さんもいます。福祉嫌い、病院は合わないと本当に失礼なことを言い続けている訳ですが、実際の私はたくさんの医療者と患者さん、行政や地域支援者に支えられて今日までの日々を過ごしてきています。

2021年5月に移ってきた烏山病院は自助グループとの交流が盛んで、私は自分の立ち位置におびえることなく過ごせるようになりました。患者さんの思いを否定することなく変化を目指す「動機付け面接」、変化を目指すことすらも手放した「オープンダイアローグ」など、これから挑戦したいことがたくさんあります。

自分のストーリーは自分で書き換えていくもの。誰かに矯正/強制されるものではない。それは患者さんにとっても、私にとっても、譲れないものだと思っています。

プロフィール:水野有紀
昭和大学附属烏山病院 精神保健福祉士

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