新卒では看護師の仕事には就かず、農林大学校へ進学したまめこさんは、コロナ禍に初めて病院で働きはじめ、農林大学校は退学することに。病院勤務は週3日、働き始めて2カ月が経ちました。看護助手業務からスタートして、現在は緊張や不安を感じながらも周囲の温かい声かけにも助けられ、入浴介助や食事介助を担当していましたが、業務内容も徐々に変わりつつあり、褥瘡の処置にもかかわりはじめました。そんなとき突然、所属フロアを異動することになり、利用する休憩室、タイムカードを押す場所も変わり、どう振舞えばいいのか不安を感じながらの出勤です……
大きな地雷を踏まないように
思いのほかタイムカードを押した時間がギリギリで、急足で荷物を置きに行きます。ナースステーションでは他の看護師さんたちが点滴をつめたり、経管栄養を用意したりしています。
私はどういう感じで仕事に入っていけばいいのだろうか。ナースステーション来たら、これをやればいいという仕事もわからないし、誰に声かけて、今日私がやる仕事を聞けばいいのかもわかりません。申し送りがすぐに始まるわけでもなさそうです。
人と目を合わせることができない私は基本、人の顔すらも視界に入れるのが苦手です。なので、いつもは空間に顔を向けて耳だけで情報をキャッチします。
ですが、いまはそうはいきません。
誰かに話しかけたときに周りの人がどう反応するかで、話しかけた相手が適切かどうか測らなければならないからです。この人は周りからどう思われている人なのか、病棟ではどういう立ち位置なのかを私は知らなければいけません。ここで仕事をしていくのですから。
気をつけていても小さな地雷を踏むのは避けられないので、せめて大きな地雷を踏まないようにしたいのです。
普段、人を視界に入れずとも普通の人と同等かそれ以上の情報が入ってくる体質のため、人を視界に入れると通常の倍以上の情報が入ってきます。
この“空間を吸い込む”作業は、吸い込むときに心臓に負担がきますし、その空間が所有する要素を分解をするのに莫大な心身のエネルギーを消費します。
この感覚は説明しても理解されないですが発達障害(ASD)特有のものだと思います。
モヤモヤすることはやめたけど
脳の機能がマイノリティーゆえ、「発達障害」というラベルが貼られています。他人と比べない限り、自分が変わっているということは、感じません。
全体のなかでは割合的に少なく、理解しがたい特性を持っているから、カテゴライズされ、「変わっている」という箱に入っているのだと思います。
一般的なコミュニケーションがわからないにも関わらず看護学生時代を乗り越えられたのは、人よりも人の感情に敏感だからだと思います。
誰かが話すなかで、「いま私は間違えた」と感じることがあります。私のなかではまったく間違えてはいないけど、相手にとって何か引っかかっているものがあったと感じるのです。
なぜそのような感情と感覚を持つようになったのかはわかりません。相手の気持ちの機序は理解できませんが、私がいました立ち振る舞いや言動はその人にとって適切ではない、この場面にフィットしないんだということだけはわかります。
相手にとってなぜそうなのか、理由がわからないのでモヤモヤしますが、モヤモヤしていたらすべてにおいてモヤモヤするので、モヤモヤすることはやめました。
そういう場面の一つひとつを、毎日湯船に浸っているときに思い出してきました。どのタイミングで相手の表情が曇ったのか、そのときの状況や相手の心身の状態などをできる限り鮮明に思い出しながら、分解分析していきます。
どんな言葉を言えばよかったのか、
言葉が間違っていたのか、
イントネーションが違ったのか、
間合いが違ったのか、
はたまた私が行間を読めていなかったのか。
私が思っている「当たり前」「常識」が違うのだろうか。私が持っている「間違っているのではないか、適切ではないかもしれない」と感知するレーダーそのものがこの世の中と合っていないのではないか。
何度も自分が持っているものを疑い、自分がやっと安心した、やっと慣れてきたものを、また分解していかなければなりませんでした。
この作業の繰り返しは、とてつもなく体力のいるものです。
これら経験から、
私は私のことを信じるのが難しいし、
私のことを信じるのが怖いし、
信じられない世界で生きているのが怖いし、
でもその世界で生きなきゃいけないし。
そんな世界で生きていくなかで、自己肯定感なんて、とうの昔に壊れてしまいました。壊されて、きました。
そもそも、
生まれてしまったこと自体が、
間違いだったのではないか、
そんなことも考えてしまいます。