前回までのおはなし…
ずっと気を張っていた勤務初日。教えてもらいながら必死についていくうちに業務時間が終わっていた。やさしく接してくれるリーダー、帰りは師長が手を振って見送ってくれた姿に、うれしさと安心で涙が込み上げてきた。家に帰ると相当な疲れを感じ、この先も本当にやっていけるのかという不安を感じながらも、新たな環境に挑戦し、前に進んでいることを実感して目頭が熱くなった……
午前勤務がうれしい1つ目の理由
無事初回勤務を終え、週に3日午前中勤務が始まりました。
8時半から12時半までの勤務。1日職場にいなくてよいと思うと、心が楽です。学生時代の実習のときは、朝から夕方まで病院内で気を張って、家に帰ってもレポートやるために気を張っていました。それに比べると、心に余裕があります。
もし何か、仕事中にあったとしても、帰ってから心を落ち着かせられる余白があることを“お守り”にしていました。気持ちを切り替えられる時間があるだけで、安心なんです。
学生時代は、辛くても、苦しくても、手が震えても、泣けませんでした。泣いてしまったらタイムロスだから。レポート書く時間がなくなってしまうし、泣いたらそのときは楽になるかもしれないけど、泣かなかったら進んでいたであろうレポートのことを考えるほうが絶望的な気持ちになります。
病院内で涙が出ることはありましたが、どんなにつらくても、家では泣かないようにしていました。つらい気持ちに気づかないふりをして、無意識下に抑圧して、見ないようにするしか乗り越える方法はありませんでした。その結果、全身の鈍痛や過呼吸など、身体症状が出ていたんですけどね(毎日手足に湿布を貼って寝て、それでも痛くて寝られないときはロキソニンも飲んでいました)。
私にとって、これが日々の生活でした。
また、病院勤務を始めたばかりの頃は、初めての環境で刺激が多いなか、自分のテンションを保ち続けるのはたいへんでした(いまでもたいへんですが……)。
私はもともとテンションが低く、表情が出にくく、さらにマスクによってより相手に表情が伝わらない状況のなかで、自分の立場が不利にならないように、立体的に注意を張っていました。
「何か起こると自分がいけないからだ」と考えがちなので、すぐにメンタルが落ちていきます。そうすると、表情がより出なくなって、周囲からの見えかたも悪くなる、という悪循環になります。そのため、学生時代にスクールカウンセラーに教えてもらった「起こったことは、自分のせいでもあるし、他人のせいでもあるし、時のせいでもある」という言葉を脳内で反復させていました。
午前勤務がうれしい2つ目の理由
また、私は人とご飯を食べるのか苦手です。
摂食行動を人に見られるが苦手というのもあるのですが、いちばんはコミュニケーションをしながら食べることが難しいのです。
みんな当たり前のようにやっているから不思議です。器用でうらやましいですね。私は、コミュニケーションに焦点を当てると、ご飯食べているのに食べていないようで、味がよくわからなくなります。食事と人の両方に気を配らなければいけないのが、とても難しいのです。できれば黙々とご飯を食べたいのですが、社会の場では会話が求められます。
学生時代、ご飯を食べるときは無言で食べて、食べ終わったら少し話す、みたいな昼休みだったので、無理なく過ごせたんです。
不器用と言ってしまえば一言で終わるのですが、その不器用さを許容してくれる環境が少ないことが、発達障害を持つ社会人として生きにくい理由になっているんですよね。
だから、お昼ご飯を人と食べなくてよいというだけで、私にとっては午前勤務はとてもうれしいことだったのです。
得意なことがあれば許容さた学生時代
苦手なことはたいてい交渉してどうにかしてきた人生でした。
隣の席の子が高頻度で触ってくるのが不快すぎて席を変えてもらったり、先生の声が大きすぎて動悸がするからその教科のときだけ後ろの席にしてもらったり、苦手なことは交渉して、どうにか生きやすい環境をつくってきました。
(触れることが安心につながる子の横に、触られるのが苦手な私がいるのはお互いにとって良くないから席を変えようと提案したら、乗り気でOKしてもらいました)
その当時は発達障害や合理的配慮について、私自身がまだ知らなかったため、合理的配慮をお願いするほどの知識もありませんでした。そのため、周りに「まめこならしょうがない」と思ってもらうことで、角を立てずにうまく生きてきました。
これは私の経験ですが、周りに「しょうがない」と思ってもらうためには、「頭がいい」ということとリンクさせることができれば、手っ取り早かったです。スティーブ・ジョブズもビル・ゲイツも、人とは変わっているというエピソードがたくさんありますが、「すごい人だからしょうがない」と周囲が納得していたのではないでしょうか。
私はもともと頭が良かったわけではありません。クラスなかでも底辺から這い上がってきたタイプです。小学生の時は不登校で、勉強をする時間も少なかったです。
それでも、努力によって「頭が良い」という立場を確立させました。そしていつの日か、私がいい点数を取っても、周囲のみんなは勝手に「まめこは変わってるからね〜」と、自分たちで納得するための理由に「変わっている」ということを使い始めたのです。
初めて言われたときは、悔しかったですよ。私は変わっているからテストで点数が取れるわけじゃない。誰よりも不安感が強く、それを払拭するために人一倍勉強をしてきた結果の点数なのですから。
でも、とても便利なんです。「頭が良くて変わってるから、しょうがない」と思われることが。私はその評価に苦痛を感じつつも、ある意味では救われてきましたし、戦略的に使ってきたとも言えます。
でも、社会のなかで、病院という世界のなかで、そのような方法は使えるのか。技術のない新人看護師が、です。
圧倒的な看護師として経験、そして技術力、コミュニケーション能力がある先輩方に、私をどう見てもらって、どう評価してもらい、自分の生きやすい環境をつくっていけばいいのでしょうか。
何もできない新人看護師。それは、角を立てたら速攻で潰されてしまうような圧倒的な弱者です(幸運にも尊重してもらいながらいまも働けているから書けることですが……)。
働き始めたころ、こんなことを考えていたのです。
5年一貫の看護高校卒業後、林業学校に進学。現在は、病院と皮膚科クリニック のダブルワークをしながら、発達障害を持っていても負担なく働ける方法を模索中。ひなたぼっこが大好きで、天気がいい日はベランダでご飯を食べる。ちょっとした自慢はメリル・ストリープと握手したことがあること。最果タヒ著『君の言い訳は、最高の芸術』が好きな人はソウルメイトだと思ってる。ゴッホとモネが好き。夜中に食べる納豆ごはんは最強。