ある看護師のモノローグ
大変なことになった。もう8時を過ぎた。でも患者さんが来ない。今日はろうの方だ。8時15分前には必ず来てと言ったのに。到着が遅れてしまうと手術開始も遅れてしまうから時間厳守でお願いしますと言ったのに。電話で連絡をしようか。でもろう者だから電話はできない。緊急時の連絡方法はどうなっていたっけ。どうしよう。
時計の針が8時10分を指すと、ようやく患者さんがやってきました。ずいぶん遅れてしまったなと看護師がうなだれていると、患者さんはきょとんとしながら時計を指さし、時間通りに来たことをアピールしています。
集合時間は時刻で伝えよう
これは架空の出来事ですが、なにが起きていたのでしょうか。答えは単純なコミュニケーションエラー(認識のずれ)です。看護師が来てほしかった「8時15分前」は「7時45分」のこと。
ところがろうの患者さんは「8時15分前」を「8時15分の少し前」、つまり「8時12分頃」だと思ってしまったわけです。そういえば、声には抑揚があるせいか、聴者でこの手の伝達ミスはあまり見聞きしない気がします(聴者でも起こり得ると思うのですが)。
ろう者は時間を手話で「7時45分」のように「時」と「分」ではっきりと表現します。「15分前」のような表現は避け、具体的な時刻を伝えるようにしましょう1)。なお、手話では時刻を「24時間制」ではなく「12時間制」で表します2)。
ろう者は具体的な表現がお好き
時間に限らず、ろう者になにかを伝えるときは、具体性を持たせた方がよいようです。たとえば月日を表す場合、手話では「今月」「来月」「先月」という表現はあまり使われません。この記事の掲載日は10月ですが、今がもし10月なら、今月を表すときには「10月」と、来月は「11月」と、先月は「9月」と数字で具体的に表します2)。
ところで「先月」の9月23日は新たに法律で定められた「手話の日」でしたね。「手話言語の国際デー」でもあり、全国でブルーライトアップされました(本記事のバナーが青色なのもそれにちなんでいます)。また、「来月」の11月には、きこえない・きこえにくい人のための国際スポーツ大会、東京2025デフリンピックが開幕されます。
曖昧さより明瞭さ、抽象より具体
さて閑話休題、具体的に伝えるお話でした。たとえば、食事会などで人に誘われた場合、聴者は「行けたら行きます」のような曖昧な返事をすることがあります。ろう者は、行けないときにはうやむやにはしないで、「行けません」とはっきり断る傾向があるようです2)。もちろん、行くかどうかを本当に迷っていて検討しているときには、考え中だと伝える必要はあります。
また、ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)に関する会話をするときにも、手話では「SNS」という単語よりも、「Instagram」「LINE」「X」のように個々のアプリの単語を好んで用います3)。これも抽象的な表現よりも、具体的な表現が好まれるよい例です。
具体的な表現を好むのは、ろう者の文化(ろう文化と言います)の特徴だということは覚えておきましょう。
内服薬、いつ飲むか、今でしょ
たとえばこの知識を薬の飲み方の説明に使ってみましょう。薬には時間を決めて服用するのではなく、症状が出たときにだけ一時的に使用する頓服薬(頓用薬)と呼ばれる薬がありますよね。
解熱鎮痛薬の頓服薬であれば「熱が高いときに内服」「痛みが強いときに内服」などと指示されますが、熱が高いときとは体温がなん℃のことなのか、どれくらい痛みが強くなったら飲めばいいのかわかりません。
こんなとき、「38℃以上のとき」や「痛みのスケールで○以上のとき」のように、使うタイミングを具体的に示すとわかりやすくなるはずです(体温計の有無の確認、痛みのスケールの説明はあらかじめ済ませておきます)。もちろんこれはろう者に限らず、聴者にもお勧めします。
頓服薬ってなに?
なお、頓服薬(頓用薬)という語も一般に誤解が多い言葉ですので気をつけましょう。「頓服薬とは解熱薬(または鎮痛薬)のことである」「頓服薬とは粉薬のことである」と勘違いしている人がいます。
頓服薬とは症状が出た時に使う薬を広く指しているのであって、痛みや熱に限らず、便秘のときや、吐き気があるときに使う薬も頓服薬と言いますし、粉薬だけでなく錠剤やシロップ剤の頓服薬もあります。
余談ですが、私は小さい頃、熱を出すたびに「頓服薬を飲みなさい」と親から赤い薬包紙に包まれた粉薬を飲まされていました。そのため医学部に入るまで頓服薬とは「赤い包み紙の薬」だと思い込んでいました。
まとめ
〇「8時15分前」には「7時45分」と「8時12分頃」のふたつの解釈がある。誤解のないように時刻ではっきりと示す。
〇頓服薬は使うタイミングを具体的に伝える。
第4回は以上です。
次回以降も「手話と医療、ろう者に関するハッとするような常識・非常識」「日常では気づきにくいが、気づかなければいけなかったこと」などを取り上げていきたいと思います。
明日からとは言わず、必ず今日から誰かの役に立つ内容です。是非シリーズを最後までご覧になってください。
※本内容はすべてのろう者、聴覚障害者やそのご関係者にあてはまるものではありません。
※手話表現には、地域差、個人差があります。ご自身の周囲の手話表現を大切にしてください。
参考文献
1)NHKテキストみんなの手話. 2025年4月~6月/10月~12月,2025,84.
2)前掲書1).79,91,88-89.
3)NHKテキストみんなの手話. 2025年7月~9月/2026年1月~3月,2025,83.
相澤病院 救急科 医長
中高生の頃にマンガ『ブラックジャック』と海外ドラマ『ER緊急救命室』に影響され医学部を受験するも不合格。1浪して東京慈恵会医科大学へ。その後は松本市の相澤病院で初期研修をして救急医になる。書籍『無名の医療者が医学書を出版するまでの道(メディカ出版)』『季節の救急 第2版(日本医事新報社)』などの単著を出版後、京都大学大学院で専門職学位課程(社会健康医学修士)を修了。コロナ禍に筆談でろう者を診療していたが、実はまるで通じていなかったとあとでわかり衝撃を受ける。今は手話と医療に関する本を出版したい。
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