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認知症になると、責任能力の有無が問われる場面が多々あります。特に、財産の処分や相続の際にあれこれ揉めることが多い印象です。

初診の患者さんの家族にこんなことを言われたことがあります。

「父はやはり認知症だったのですね。3年前に親族が経営する会社に財産の一部を贈与しているのですが、そのときから認知症だったのではないですか? 父の判断は間違っていたのだと思います。親族から財産を返してもらおうと思っているのですが、診断書を書いてもらえますか?」

しかし、それはできません。3年前には診察していないからです。3年前にはすでに発症していたかもしれませんが、あるいはまだ認知症になっていなかったかもしれません。どちらなのかいま初めてみた私にはわかりません。過去に遡って証明することはできません。現在の状態しかわかりませんし、証明できるのも現在の状態だけです。


看護師のための認知症患者さんとのコミュニケーション&“困った行動”にしない対応法

CASE 053
80才女性

夕方です。その日の診療が終わって事務職員がレジのお金を計算していると、診療時間が終わっているのに呼び鈴が鳴りました。職員が出てみると、亡くなった患者の長女ともう一人スーツを着た男性が外に立っています。「本日は弁護士といっしょに先生にご相談に参りました。先生に会わせてください」と言うのです。

職員は、私に伝えにきました。

「娘さんと弁護士の方が見えているのですが、どうしましょうか」

その面会はすでにメールで断ったはずでした。亡くなった患者については、生前に詳細な後見診断書を出しています。これ以上私にできることはないのです。

これまでの経過

元来血圧が高く内科で降圧薬を服用していました。夫と二人暮らしです。夫は本人より10歳も年上で、足が不自由でした。子どもは長男と長女の2人です。それぞれ独立して家庭を持っています。普段の行き来はないようでした。

X-3年、徐々に薬を飲み忘れるようになり、内科の通院間隔が徐々に間遠になりました。血圧が上がってきましたが何の症状もなかったので本人は気が付きませんでした。

X-2年、もの忘れが目立つようになり、また同居の夫に対して易怒的になったので、困った夫に付き添われ、当院を初診しました。

初診時の状態

財布・鍵などのしまい忘れが多く、しょっちゅう探しています。料理が不得意になり、「味が大丈夫かみてほしい」と夫に頼むようになりました。嗅覚も落ちているようです。入浴頻度が減り、週1回程度しか入らなくなりました。置いてある衣類が猫に見えることがあります。これは錯視という症状です。錯視は錯覚の一種で、幻視の一種でもあります。目に映ったものが脳の中で別の物体として認識されてしまう現象です。衣類やカーテンが人や動物に見えたり、置物が動いているように見えたり、壁のシミが虫や顔に見えるのです。このような症状は、レビー小体型認知症の可能性があります。アリセプト®︎を開始しました。

情緒面でも変化がありました。よく眠れません。性格が変わり、夫に対して怒りっぽくなり、時には理由もわからず突然激昂し、感情が抑えられず手に持っていた箸を机に叩きつけて折りました。数日に1回はそのようなことがありました。このため漢方薬の抑肝散を併用開始しました。

抑肝散は不安、不眠、イライラ、興奮などを鎮める作用がある漢方薬です。人によっては抗うつ作用を示すこともあります。精神安定薬のマイナートランキライザーは高齢者に処方すると転倒や傾眠などの副作用が問題になります。抑肝散にはそのような副作用が少ないため、レビー小体型認知症の精神症状に対し広く使われています。

ひとりで通院する

夫は足が悪く付き添いがたいへんでしたので、3回目からは本人が1人で通院しました。電車を乗り間違えて反対方向に行って駅員に訊ねながら戻ってくるなど、迷子になりながらの通院でした。抑肝散を服用してからは情緒が安定し、夜間よく眠れるということでした。

このころから血圧が上がり、収縮期220などかなり高くなりました。血圧上昇の原因はなんでしょう。3つ考えられました。

1つ目は、レビー小体型認知症によるものです。レビー小体型認知症では自律神経失調症になります。血圧、脈拍、体温、消化管の働きなどは自律神経で調節されています。これらの調節がうまくいかなくなり、不安定になります。血圧が乱高下して、急に200以上に上がったかと思えば、下がり過ぎて100を切ることもあります。これは降圧薬を飲んでも下がらないことが多く、降圧薬によって頻繁に低血圧発作を来すようになってしまうので治療が難しいです。

2つ目は、薬の副作用です。抑肝散には「甘草」が含まれています。この甘草の主な副作用が血圧上昇です。偽アルドステロン症という副作用です。ほかにも体の浮腫や血清カリウム値の低下と、それに伴う低カリウム血性ミオパチーを呈する場合があります。ミオパチーになると四肢に力が入らず、立ったり歩いたりできなくなります。この治療はすぐに抑肝散の投与を中止することです。この人の場合、抑肝散を服用してから情緒が安定し、夜間もよく眠れるようになっていましたので、できれば服薬を継続したいところです。

3つ目は、もともとの高血圧症によるものという考えです。この人は以前から内科に通い降圧薬を飲んでいたのですが、当院に来る前から内科に行かなくなっていました。降圧薬の中止による血圧上昇の可能性もあります。降圧薬を再開しました。すると、すぐに血圧は140程に下がりました。

通院が間遠になる

何度目かの来院では、呼出された後、診察室の場所を忘れ、廊下をうろうろしていました。それでも毎月通ううちに迷子にならなくなり、順調に通院できていました。

X-1年、通院が間遠になり、3カ月ぶりに来院しました。「夫が入院していました」とのことでした。この間、いままでに飲み残した薬でなんとか足りたということでした。画像検査を行うと大脳全般の萎縮が進行していました。薬を忘れずに服用するように指導し、また毎月通院できるようになりました。

心房細動

しばらくすると動悸がするようになり、本人は循環器科を受診しました。循環器科では心房細動と診断されましたが、「認知症で通院している」と本人が話したところ「認知症なのであれば、抗凝固療法はしないほうがいいでしょう」と言われたとのことでした。

抗凝固療法は心臓の中に血栓ができないようにする薬物療法ですが、薬の飲み忘れや重複服薬があると治療がうまくいかなかったり、薬の効き過ぎで出血傾向を来す恐れがあります。

転倒

このころに転倒しやすくなりました。レビー小体型認知症では、パーキンソン症候群を伴うことが多いので、すり足小刻み歩行になり、バランスが悪く転倒しやすくなります。あるとき自宅近くで屋外歩行中に転倒し、近くの病院に搬送され頭部CT検査を受けました。大脳萎縮を指摘されましたが、幸い脳内に出血はありませんでした。

抗凝固療法をしていたら、転倒した際の血腫が増大したり、慢性硬膜下血腫になった場合に血腫が増大して手術が必要になるリスクが高くなっていたことでしょう。その後もときどき転倒を繰り返しました。

「認知症ではない」という診断書

数カ月後、今度は半年間通院が途絶えました。「夫が入退院を繰り返していまして」とのことでした。薬はとうに切れていました。「よく眠れないし、物忘れもひどいです。ときどき家の中に小動物が見えます」と訴えました。アリセプト®︎と抑肝散を再開しました。

その翌月「夫が亡くなりました」とのことでした。「お葬式の後、相続の手続きが必要なのですが、私が認知症ということで手続きをしてもらえないようなのです。だから認知症ではないという診断書を出してください」と頼まれました。

これは難題です。

医療機関では「認知症である」という診断書は出せます。症状経過、画像所見や認知機能検査などが揃っており診断基準を満たせば確定診断できます。そして診断書が作成できます。

しかし「認知症ではない」という診断書は出せません。証明できないからです。多くのデータが正常であっても、実施していない検査で異常があるのかもしれません。死後の病理検査で認知症だったことが判明することもあります。

ここは慎重に対処すべき場面です。

「認知症ではないという診断書は出せません。しかし、いまのあなたの状態は軽度認知障害なので、軽度認知障害という診断書は出せます」

すると、軽度認知障害という診断書でかまわないということでした。

長女の登場

いままでは1人で通院していましたが、夫が亡くなってからは長女が付き添って来院しました。夫の死後の手続きに手伝いが必要でした。一人暮らしになったので、家事を手伝うために頻繁に実家を訪問するようになったということでした。

「相続の手続きが滞っています」

手続きをしなければならない本人が軽度認知障害なので、相続の手続きに問題が生じているようでした。私は成年後見制度の利用を勧めました。後見センターのパンフレットを渡して手続きの方法について説明しました。さっそく後見申請することになりました。

長女は言いました。

「長男がおかしなことを言い出しました。夫が亡くなり一人暮らしになったので、私が母の世話を始めたのです。すると『母をたぶらかして、親父の財産を姉貴がみんなもらおうと思っているんだろう』などと言いがかりをつけてくるのです。まったくの妄想です」

「早めに後見人の手続きをして、家族が納得できるように第三者にお願いするのがよいでしょう」とアドバイスしました。

MMSEではわからない認知機能の低下

次の来院時に、後見診断書作成のためにMMSEを施行しました。その結果、30点満点中29点でした。レビー小体型認知症は認知機能が変動し、良い時と悪い時の波が激しいのです。もの忘れや錯視が出没していましたが、MMSEではほぼ正常の点数でした。

しかし「前回いつ受診したか覚えていますか?」と尋ねると、先月半年ぶりに来院したことを忘れており「さあ、夫が入退院のすえ亡くなりまして、もう半年以上受診していませんでした。去年でしょうか。だいぶ前だと思います」との返事でした。この1カ月ほどの記憶がないようです。

後見診断書にはMMSEの点数を記載します。家庭裁判所ではこの点数を類型を決める目安にしています。20点未満だと最重度の後見類型と判断されます。

この人のように点数は良いけれども実際には判断力に影響するような認知機能の低下がある場合には、症状について詳しく記載する必要があります。私は、日常生活のなかでの具体的な記憶の欠落についてや、判断力の低下を示すエピソード、見当識障害の存在などを記載して保佐人相当での診断書を作成しました。

成年後見制度の類型

成年後見制度には、補助、保佐、後見と3つの類型があります。自宅の売却や株の売買など大きな契約の際にどの程度手伝ってもらうか、あるいは全部お任せでやってもらうかによる違いです。

保佐類型は、本人が大きな契約をするときに保佐人の同意がないとできないというものです。保佐人の同意なしに契約した場合には、本人にとって不利益な契約であると判明した場合に、後から取り消すことができます。

後見人や保佐人、補助人がついても、日常的な買い物についてはいままで通り自由に行うことができます。大事なところだけ援助してもらう制度になっています。

白紙委任状

しばらくすると本人が「息子に呼び出され恫喝されて不本意ながら何だかわからない書類にサインさせられたので心配です」と言いました。どうやらそれは白紙委任状だったようなのです。そしていつの間にか本人の自宅が売却されました。売却して得られた現金は長男のところに入ってしまいました。

後見制度利用前の契約は、後から取り消すことができません。他にもこのようなケースの方々がいましたが裁判で争っても難しいようです。私は長女にそう話しましたが、長女は長男を相手取って裁判を起こすつもりでした。

本人は住むところがなくなりましたが、まだ預金があったので長女がマンションを借りてそこに本人を住まわせました。

経済的虐待ではない

私は経済的虐待ではないかと考え、地域包括支援センターに通報するのと同時に、長女に対し成年後見診断書を家庭裁判所に提出して早急に手続きを進めるようにアドバイスしました。

地域包括支援センターでは現在本人に残されている財産を確認しました。年金が振り込まれる預金口座はそのままでした。預金と年金でマンションの家賃を支払いながら、生活費に困る状態ではありませんでした。預金は長女が預かり管理しました。地域包括支援センターの担当者も、成年後見制度の申し立てを急ぐように長女に指導しました。

売却された自宅に関しては虐待と判断することは難しいとのことでした。こちらについては家族間の遺産をめぐる問題であり、虐待ではないという判断になりました。

薬の管理ができなくなる

X年、血圧がまた210/110に上がりました。自分では薬が飲めなくなったためです。マンションでの一人暮らしは無理だと思われました。私は長女に有料老人ホームに入れるようにアドバイスしました。さっそく長女が探してきたホームに入居しました。

ホームに入った安心感から不眠や不安はなくなりました。怒りの対象だった夫も他界しましたので、抑肝散は中止してもよいと判断しました。

私はホームの看護師と連携し、薬の管理や調整をしてもらいました。

精神鑑定の依頼

まもなく長女が家庭裁判所に後見診断書を提出して後見開始の審判の申し立てをしました。通常であればそのまま後見開始の審判が開始されるところでしたが、長男が異議申し立てを行なったため精神鑑定が必要と判断されました。

長女側の弁護士から、私に鑑定を依頼できないかと打診がきました。いままでの主治医としては引き受けない理由はありません。家庭裁判所から鑑定依頼書をこちらに送ってもらえれば引き受けると返事をしました。

長男のほうも別の弁護士を通じて他の病院の医師に鑑定依頼する準備をしているようでした。どちらの医師に鑑定を依頼するのかは裁判所書記官の判断になります。私は鑑定依頼書が届くのを待っていました。

突然死

ホームに入居し、ようやく薬がきちんと飲めるようになり、徐々に血圧が下がってきました。本人も気持ちが安定してきて穏やかに暮らし始めました。

面会に来た長女に「人生、思ったようにはいかないことが多いけれど、正しいと思うことをやりたい」と話したと言います。

入居後およそ1カ月のある朝、朝食の時間になっても食堂に現れないので、ホームのスタッフが様子を見に行きました。すると、部屋のテレビはついており朝の身支度も済んだ状態でベッドに寄りかかるようにして亡くなっていたとのことでした。心筋梗塞でした。
後見開始の審判中の突然の死でした。

患者は亡くなりました。対象者死亡のため、後見開始の審判は中止になりました。結局、鑑定依頼書は私のところには来ませんでした。

死後の鑑定依頼

しばらくして裁判中であるという長女から、私に「改めて鑑定書を書いてほしい」と依頼が来ました。本人は亡くなっており、裁判所から鑑定依頼もきませんでした。どういうことなのでしょう。

「裁判で使いたいので書いてほしいのです。いままでの病状やカルテの内容を詳しく書いたものをいただきたい」とのことでした。

ところがこれには問題があります。個人情報保護法です。

裁判所の依頼で鑑定書を作成して裁判所に提出するのとは違います。長女が裁判に使用するために個人情報を利用したいということなのです。

生きているときのカルテや診療内容の開示は簡単です。本人が請求すればカルテは自由に見ることができます。ところが死亡した場合、開示はとても難しくなります。たとえ親子でも、本人以外の人に勝手に開示してはいけないのです。

亡くなった方のカルテ開示請求には、相続人全員の同意が必要です。この人の場合、長男と長女です。長男も同意しなければカルテ内容に関わる情報が開示できないのです。

私はその旨をお伝えしました。

押しかけてきた家族

そして、ある日の夕方、断ったはずの書類を書いてくれということで、長女と弁護士が押しかけてきました。アポなしです。よほど納得がいかなかったのでしょう。

私は事務職員に伝言しました。亡くなった方の診療や相談はできないこと、診療内容について話すのはカルテ開示にあたり、相続人全員の同意が必要であること、など従来と同じ主張を繰り返し丁寧に伝えました。

「先生に会うまで帰りません」と長女は言い張っていたようですが、弁護士に促されてようやく帰りました。その裁判がどうなったのかわかりません。亡くなった本人の冥福を祈るばかりです。

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西村知香
認知症専門クリニック「くるみクリニック」院長。神経内科医。認知症専門医。介護支援専門員(ケアマネージャー)。1990年横浜市立大学医学部卒業。1993年同医学部神経内科助手、1994年三浦市立病院、1998年七沢リハビリテーション病院、2001年医療法人社団・北野朋友会松戸神経内科診療部長を経て、2002年東京都世田谷区に認知症専門のくるみクリニックを開業。