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病識欠如という症状があります。病識とはなんでしょうか。自分の症状を認識することです。

認知症の場合の病識は、自分に記銘力障害の症状があるとわかっているということです。病識は、神経心理学の用語では病態失認と言われます。病態失認は前頭連合野の障害で起こります。

アルツハイマー型認知症では、病識がないことが診断の決め手になるほど典型的な症状です。病識欠如が認知症のごく初期から出現するのが特徴です。記銘力障害はまだ軽いのに、病識が早くに失われるのは前頭葉の機能低下が原因です。

「病識がないのは症状ですから、わからせようとしても難しいのです。わかってもらって判断してもらおうと思わずに、周囲の人が正しく判断してあげてくださいね」
そうアドバイスしていますが、ご家族に受け入れてもらえないこともあります。そのような際には、本人の意思が介護サービス利用をするかしないかの判断基準になってしまいます。


看護師のための認知症患者さんとのコミュニケーション&“困った行動”にしない対応法

CASE 056
72才女性

疲れた顔で娘が言いました。

「限界です。毎晩添い寝するのはもう無理です」

娘の言う通りです。いくら大事な親でも、毎晩添い寝するわけにはいきません。ましてや、夜になると「夫のところに行く!ここは家じゃない!」と起き出すのであればなおさらです。

どうしてこんなことになったのでしょう。

これまでの経過

X-13年、物忘れが始まりました。毎年漬けている梅干を漬けませんでした。娘が気づいて「今年は漬けないの?」と尋ねても、毎年漬けていること自体を覚えていませんでした。もともと趣味で通っていた編み物教室やボランティア活動を休むことが多くなりました。

居眠りが増えました。頻尿が目立つようになり、頻繁にトイレに行くようになりました。同居の夫は、物忘れをいちいち指摘してはイライラして本人を怒鳴ってばかりいました。

X-11年、夫が前立腺癌になり、入退院を繰り返すようになりました。本人は休みがちだった編み物教室やボランティア活動をやめてしまいました。夫の見舞いにも行かなくなりました。夫が長期入院しているあいだに本人の体重がみるみる減少し、6kgも痩せてしまいました。

かかりつけ医が異変に気づく

高血圧症でかかりつけの内科医が異変に気づき、改訂長谷川式簡易知能評価スケールを行ったところ、30点満点で26点でした。

この検査は、MMSE(mini mental state examination)と同じような簡易な認知機能検査です。日本人の長谷川和夫医師が作成した検査で日本では広く使用されています。MMSEとほぼ同じような内容ですが、「野菜の名前を10個言う」など独自の内容が含まれており、認知機能障害の性質によってMMSEとは点数が変わってきます。専業主婦だった女性には有利な検査です。しかしながら、おおむねMMSEと同様の使われ方、評価のされ方をします。

26点というのは軽度認知障害のレベルです。顕著な記銘力障害のみを呈する場合には、3つの言葉を覚えて後から想起するという「遅延再生」項目で失点するので、27点以下になることが多いのです。

かかりつけ医はそのほかにも外注の画像検査を行ないました。するとVSRADの結果から海馬に萎縮があるとの診断になりました。VSRADというのは、MRIで大脳の画像検査を行い、海馬など関心領域が正常コントロールに比べてどれだけ萎縮しているのかを示す指標です。

長谷川式で軽度認知障害レベルでしたが、VSRADで海馬の萎縮が顕著であったため、アルツハイマー型認知症と診断し、アリセプト®︎の投与が開始されました。

前頭葉の機能が低下する

その後も進行し、服用開始後3カ月もしないうちに寝ている時間が増え、買物に行くと同じものばかり買うようになりました。易怒性も出現してきました。

寝ている時間が増えるのは、認知症の症状のなかでも前頭葉の機能低下によるものです。記憶障害は側頭葉の症状が主で、長谷川式やMMSEでわかるのですが、前頭葉の症状はこれらの知能検査ではわかりにくいのです。前頭葉機能の低下を見つけるためは症状の問診が重要になります。

生活に支障が出てきたのでアリセプト®︎の効果がなかったと考え、レミニール®︎に変更しました。

レミニール®︎を服用して間もなくイライラすることが増え、かかりつけ医は抑肝散の併用を開始しました。しかし、抑肝散が顆粒状で内服しにくく、間もなく服薬しなくなってしまいました。かかりつけ医はレミニール®︎を減量し、1回4mg、1日8mgの初期用量に戻して様子を見ていました。

夫が亡くなったことを忘れる

X-10年、夫が他界しました。しかし、すぐにそのことを忘れました。さすがにおかしいと思った娘が当院に連れてこようとしましたが、本人に病識がなくすぐに連れてくることはできませんでした。このため、娘だけが「家族相談」というかたちで当院に相談に来ました。

夫に厳しくされ易怒的に

夫は本人の物忘れなどに厳しかったので、本人の心因反応が強く出現していました。反応して易怒的になっていました。

漢字が書けません。「お車代」の意味はわかりますが、字が書けません。住所が言えません。物を失くします。

アパシーのため寝ていることが多くなりました。片付けられない、ものが捨てられないという症状もありました。これもアパシー同様、前頭葉の症状です。

側頭葉の症状もあります。日付や曜日がわからない時間的見当識障害が顕著です。買物に出ても帰り道がわからなくなり時間がかかるという場所的見当識障害も見られました。

記銘力障害と時間的見当識障害のために服薬管理は不能になっていました。

初診時の状態

日常生活動作は自立していました。本人は病識がなく、何も気になる症状はないと言っていました。このため、当院に連れてくるのが難しいということでした。

私は娘に、健康診断のためなどほかの理由をつけて当院に連れてくるようにアドバイスしました。現在の状態では服薬確認や安否確認にヘルパーの利用が必要ではないかと思われました。施設に入所させる選択肢もありましたが、現時点では有料老人ホームしかありません。経済的に無理でした。

家族相談から約10日後、本人を連れて受診することができました。

初診時、本人は何も気になる症状はないと言いました。

「私が家庭を切り盛りしているんです。掃除、洗濯、炊事、全部私1人でやってるんです。家族は男ばかりで娘も働いているから、私以外に家事をやる人がいないんです。私が倒れたら、家族は生きていけないですよ」

自信満々でした。

私は脳のMRI画像を示して「脳に血流が悪いところがあるので、薬を飲んで悪化を防ぐ必要がありますよ」と力説しました。

そしてなんとかメマリー®︎の投与にこぎつけました。

介護認定調査員を拒絶

服薬管理に問題があったため、娘は当初、介護認定申請して服薬を援助するサービスを入れようとしました。

当院を受診する前に介護認定申請で調査員が来ましたが、本人は強く拒絶しました。門前払いのようにして追い返してしまい、調査は仕切り直しになりました。

当院初診後はメマリー®︎を内服しており、気持ちが少し落ち着いたようでした。2度目はなんとか認定調査を受けることができました。しかし、調査員が「お薬を飲めていますか?」と尋ねた途端に本人が激昂し、調査員を追い返してしまいました。調査員は家族からの聞き取りも行いなんとか調査内容をまとめて認定審査会に持ち込むことができました。

前途多難ではありましたが要介護認定が出ました。病識がないのでサービスを受けることは拒絶していたおり、なかなか進展しませんでした。こつこつメマリー®︎を服用してもらいながら、介入の機会を伺っていました。

不器用になる

半年ぐらいすると不器用になってきました。食器を取り落として割ってしまいます。

アパシーが悪化し、意欲が低下し調理をしなくなりました。カップラーメンで済ませることが増えました。トイレに行くことが増え、トイレの中に座っていると落ち着くのか、トイレでの滞在時間が延びました。ボーっとただ便器に座って過ごしています。これもアパシーです。

X-9年、もはや調理はしていませんでしたが、自分ではやっているつもりでした。

診察時には、「家族の食事は全部私が作っています。私がいないとみんなご飯が食べられないんですよ。私がいなくちゃダメなのよ」と言います。事実とは違います。

デイサービス通所を促すと、「そんな暇はありません。家事は私がやっていますから、私がデイサービスなどに行っていたら、家が回りません」と拒絶します。

介護サービスを勧めないでほしい

私は本人に、「もの忘れが悪化しないように予防のために通うように」と話そう思いました。娘に提案しましたが、娘は「本人が気にするので勧めないでください」と申し入れてきました。

娘は本人が物忘れを指摘されて傷ついたり怒ったりするのを恐れていました。最初のころの激しい拒絶を目にしてしまったからです。このため本人には無理にデイサービスなどを勧めず、薬剤調整のみで治療を行なっていく方針としました。

メマリー®︎だけで1年間ほど治療してきましたが、コリンエステラーゼ阻害薬を併用することにしました。まずはアリセプト®︎から開始しました。

アリセプト®︎を開始して5mgに増量し、しばらくすると少し口数が増えました。MMSEを施行したところ20点でした。20点以上あれば在宅独居がなんとか可能といわれています。そのまま様子を見ていました。

気管支喘息

アリセプト®︎をしばらく内服するうちに少し怒りっぽくなりました。

また、咳き込む発作が起こるようになりました。内科受診してもらったところ気管支喘息と判明しました。アリセプト®︎のようなコリンエステラーゼ阻害薬は気管支喘息を増悪させます。副作用の発現です。中止せざるを得ませんでした。

アリセプト®︎を中止して間もなく喘息発作はまったく起きなくなりました。また、穏やかになり情緒も安定しました。

認知症の進行

情緒は安定していましたが、食器洗いをさせると十分洗えてないのにそのまま棚にしまったり、いまが何月ごろか、季節さえわからなくなってきました。

X-8年、記銘力障害が悪化しました。年賀状を書いたリストに名前があるのに、照らし合わせることができず、同じ宛先にまた書こうとしてしまいました。1日に何度もリストを確認し、何度も同じ宛先に書こうとしてしまいます。

目の前に目玉焼きがあってもまた作ってしまうことが増えました。

転倒しました。その記憶がありません。横倒しに転んだようで、左半身の広範囲に皮下出血があり、左手はかなり腫れていました。これを機に布団の上げ下ろしができなくなり、万年床になりました。アパシーも徐々に進行し臥床時間が増え、動かないので食欲が低下しました。

薬の促しが必要

メマリー®︎の服用を忘れるので家族が促さなければならなくなりました。明らかに悪化しているので、別のコリンエステラーゼ阻害薬を試すことにしました。レミニール®︎です。

レミニール®︎を開始して間もなく、意欲が出て部屋の片付けを始めました。物を出したり入れたりしているうちに大事なものを無くしました。気分は明るくなり、買物に行く頻度が増えました。一時期使えなくなっていたドライヤーがまた使えるようになりました。

レミニール®︎を服用した際には、アリセプト®︎のときと違って易怒性は出現しませんでした。薬ボックスの近くにメモを置き、服薬忘れが減りました。効果が感じられましたが、漸増していくうちに副作用と思われる食欲低下が出現しました。体重は4kgほど減少しましたが、その後は下げ止まりました。

買物

駅前のスーパーに1人で通うことができていました。毎日スーパーのチラシに丸をつけ、チラシを持って買物に行き、丸をつけたものだけを買ってきます。診察室では「私が家族の食事を毎日作っています。掃除も洗濯もしています。私がいなくちゃダメなのよ」そう言います。

X-7年、診察室で言いました。

「子供のためにがんばります。自分がやらないと誰も家事をしないから、洗濯、買物、ご飯の支度も全部やっています」

このころ、故郷の実家に住んでいた実母が亡くなりました。娘たちが付き添って久しぶりに故郷へと旅をしました。葬式に参列するための旅でしたが「なんでここにいるの?」と何度も尋ね、実母が亡くなったと聞くと毎回涙しました。

葬式から帰ってくるとまたもとの生活に戻りました。毎日スーパーに買物に行き、近所の高齢者と井戸端会議です。

外出しなくなる

秋になるころ、徐々に外出が減りました。診察室では「私が倒れたら、みんな倒れます」と言います。

「ご飯の支度も、掃除も洗濯も、私が1人でがんばっているんです。これからも倒れるわけにいきません」

X-6年、「家族みんなの面倒を見ています」と言います。実際にはもう調理はできません。娘が作った料理を冷蔵庫に入れておくと、本人がその料理を出してきて、さも自分が作ったかのように振る舞います。

今までやっていたことをしなくなる

掃除の頻度が減り、思い出したようにときどき簡単にする程度になりました。薬は薬ボックスでメモを利用して服用していましたが、飲み忘れの頻度も増えてきました。

不注意になり怪我をすることが増えました。ドアに足をぶつけたり、ドアで手を挟んだりします。ほとんど行かなくなっていた買物に行ったかと思うと同じものをたくさん買ってきました。

X-5年、口は達者です。診察時にはよく喋ります。「家事はなんでもやっています。ご飯も炊いているし、味噌汁も作っています。買物も全部やっているし、犬の散歩もしています」と言います。実際は、たまに目玉焼きを作る程度で、ご飯も炊いていません。味噌汁も作っていません。

同窓会があり娘の付き添いで出席しました。行く道すがら、どこにいくのか何度も娘に聞きました。会には楽しく参加しましたが、帰り道にはもう記憶がなくて、写真を見せても思い出せませんでした。

MMSE22点でした。4年前に20点でしたので、この点数の悪化はなく、むしろ点は上がっていました。しかし、生活障害は悪化していました。

洗濯ができない

洗濯物を、洗う前に畳んでしまうようになりました。洗濯はそれまでできていましたが、できなくなりました。洗濯機の使い方もわからなくなりました。

家事には大きく3つあります。掃除、洗濯、炊事です。認知症になったとき、できなくなる順番はだいたい決まっています。この人のように炊事→掃除→最後が洗濯です。家事というのは段取りが必要な作業です。段取りや作業の組み立てができないと実行できません。これを実行機能障害といいます。

娘が焼きそばを作ってあげたところ、箸ではなく爪楊枝で突いて食べました。

時間がわからなくなり、つねに腕時計を確かめます。腕時計を外してしまうとパニックになります。

失認が出現

X-4年、買ってきたアスパラガスを水耕栽培の植物の鉢に刺していました。何か別の植物だと思ったようです。

いろいろできなくなっていたので「困り事はないですか?」と尋ねると、「家族のために倒れられません」と言いました。このころ要介護1でした。

年賀状を書く時期になり、ハガキの書き方がわからないのでパニックになりました。

感情が失われる

X-3年、感情が平板化しました。年賀状のころのようなパニックももう起きませんでした。診察時には相変わらず「家事はみんなやっています」と言います。しかし、実際にはコンビニで弁当を買い、それを食べています。

MMSE23点でした。1年前は22点です。しかし、頭部MRI検査では、大脳皮質の萎縮が進行しており、海馬の萎縮も進んでいました。

本人は言いました。

「医学に頼って長生きはしたくなく、自然のままがいいんです」

私と娘はその発言に驚き、顔を見合わせました。

体重増加

X-2年、MMSE20点でした。体重を測定したところ、この1年間で10kgも増加しました。娘に生活ぶりを尋ねると、しょっちゅう食べており、運動量は少ないということでした。

運動量を確保するため、訪問か通所のリハビリテーションを勧めましたが、娘から「本人に自覚がなく無理に勧めるとまたパニックになって騒ぐので」と行いませんでした。

お風呂は沸かせなくなりました。買物はまったくできなくなりました。食欲が亢進し、冷蔵庫に入っているものをすぐに食べてしまします。

尿失禁が増え、リハビリパンツを使用開始しました。本人は「人に指示されることが嫌いなの」と言いますが、実際は娘の指示でなんでも行なっていました。

頻尿が徐々に悪化し1日に10回以上トイレに行くようになりました。パジャマと普段着の区別が付かない、昼夜の区別がつかないなど、以前にはなかった症状が現れました。

リバスタッチパッチ®︎に変更してみましたがかぶれてしまました。このためもとのレミニール®︎に戻しました。

転倒をきっかけに

しばらくして自宅近くの路地で転倒しました。怪我がひどく、娘が整形外科に連れて行きました。待合室で騒ぎ出し「帰る!なんで来たんだ!」と怒鳴り散らしました。結局受診せずに帰宅し、帰宅後に入浴しました。湯船から出られなくなり、娘がなんとか抱えて出して、着替えさせ布団に寝かせました。その晩に失禁しました。怪我は打撲傷だったようで、その後膝周辺に内出血が現れましたが2週間ほどして治りました。

打撲が治るまでの2週間、泣いたり大声を出したり、意味不明なことを口走りました。食欲はなく1日1回ほどしか食事が取れませんでした。起きることも歩くこともせず、布団の上で過ごしました。1日1回の食事以外はずっとうとうとと寝ているような状態でした。せん妄です。怪我によって引き起こされたものと考えられました。

2週間が過ぎ、徐々に正気に戻り起き上がれるようになりました。なんとか以前のように歩いて当院に受診できるようになりました。

痩せたのはダイエット?

診察室で言いました。

「ダイエットして痩せました。家事は全部やっています」

実際は2週間のせん妄状態のあいだに食事摂取不良で体重が減少したのです。本人にはその記憶はありませんでした。怪我をしたときのかさぶたを自分でむしってしまうので傷はなかなか治りませんでした。

その直後のMMSEは19点に低下していました。MMSEは20点を切ると在宅生活が難しいといわれています。

X-1年、徐々に食事がとれるようになりました。体重も戻りました。せん妄から回復して日常生活動作も転倒前の状態に戻りつつありました。一方、記銘力障害は徐々に進行しました。入浴すると、上がってきてから脱いだ服をまた着てしまうようになりました。以前は新しい服をタンスから出して着ていたのです。

診察室で言いました。

「私がいないと、家庭が動かないから」

自信満々です。転倒後に夜間尿失禁をしてから、常にリハビリパンツを履いています。リハビリパンツが濡れてしまうと自分で履き替えます。

時間的見当識障害が悪化しました。朝起きて食事や片づけが終わると、夜だと思って就寝してしまいます。

犬の餌

過食になりました。家の備蓄食料を食べてしまうようになりました。缶詰やインスタント食品です。飼い犬の餌を食べてしまいます。買い置きしていたピーナツバター1瓶いっぺんに食べてしまいました。

9年前に他界した夫の居場所を尋ねるようになりました。ときどき「ここは家なの?」と娘に尋ねます。朝晩の区別はすっかりなくなってしまい、夜中にふと起きてぼーっと座っています。朝は起きられません。

薬を飲んだことを忘れ、何度も飲むようになりました。薬剤管理のため、訪問看護や薬剤師による居宅療養管理指導を導入したほうがよいと思いましたが、他者の介入は本人が混乱するのではという娘の意見で保留になりました。

X年、多弁でずっと喋っています。毎晩のように暗くなると夫の姿を探します。排便後の後始末がうまくできなくなり、拭くときに手に便がついてしまい、その手でトイレの壁などあちこちを触ります。

風呂の湯船の中で便が出ても気がつきません。朝起きても着替えなくなりました。

食行動の異常も悪化しました。ポン酢をジュースだと思って飲んでしまいました。フリーズドライの味噌汁はお菓子だと思って食べました。インスタントラーメンも同様にそのままかじって食べました。

このような状態でしたが、MMSEは19点でした。2年前から同じ点数で低下はありません。MMSEの点数ではわからない認知機能の低下が着々と進行していました。

帰宅願望

あるとき、夜中に「家に帰る」と言って玄関から出て行きました。初めての徘徊でした。さすがに娘は施設に入れることを考えました。

その後も何度も徘徊するようになりました。「自宅じゃない、帰る」と言います。そのうち夜間だけではなく日中にも「ここは家じゃない」と言い出しました。

診察に来ましたが、「私がいないと」といういつものセリフはありませんでした。挨拶はしますが何も話しません。横で娘だけが話しています。「冷蔵庫の中の生の肉を食べてしまって、お腹を壊したようです」「ぼーっとしていて反応が鈍いことが増えました」「よくむせるようになりました」。

風呂とトイレの区別がつかなくなり、トイレに行こうとしてベランダに出てしまうこともありました。多弁だった人が無口になりました。

嚥下障害

むせるのひどくなりました。嚥下障害です。食事中に咳き込むと食事を嘔吐してしまいます。

未明に家を出ていき、警察に保護されました。パジャマのまま手ぶらで出かけました。初めての警察保護でした。「夫のところに行く」と夜中に突然出て行こうとします。娘が「お父さんは亡くなったよ」というと「生きている!」と大声で怒ります。毎晩娘が添い寝するようにしました。すると安心したのか徘徊や夫を探す行動は徐々におさまりました。

それでも、相変わらず目を離すと犬の餌を食べます。

娘はヘトヘトになってしまいました。施設に提出する書類を持参して受診しました。地域包括支援センターでもらってきました。

「もう毎晩添い寝するのは無理です。施設に預けることにしました」

介護保険サービスを使うのは初めてです。私は必要な検査をすべて行い、施設に出す書類を作成しました。

在宅サービスであるデイサービスやショートステイ、ヘルパーサービスなどいっさい使わずに家族だけで介護してきました。経過中何度も在宅介護サービスを勧めようとしましたが、家族の方針は変わることはありませんでした。これから初めて利用するのは施設サービスです。ついに最後までケアマネジャーと契約することはありませんでした。

ケアマネジャーが付いてケアプランを作成し、在宅介護サービスを利用していたら経過は変わっていたのでしょうか。その答えを知ることはできません。

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西村知香
認知症専門クリニック「くるみクリニック」院長。神経内科医。認知症専門医。介護支援専門員(ケアマネージャー)。1990年横浜市立大学医学部卒業。1993年同医学部神経内科助手、1994年三浦市立病院、1998年七沢リハビリテーション病院、2001年医療法人社団・北野朋友会松戸神経内科診療部長を経て、2002年東京都世田谷区に認知症専門のくるみクリニックを開業。