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認知症患者の家族にはいろいろな人がいます。真面目な人、投げやりな人、常識的な人、非常識な人。その背景にはいままでの家族の歴史があります。

誰もが標準的な家庭に育つわけではありません。生まれてくるとき、親を選ぶことはできません。

社会の標準からかけ離れた家庭で育ち、何が「当たり前」なのか知らずに育った子どもは認知症になった親をどうやって介護するのでしょうか。

CASE 062
82才女性

診察室で、長女と次女がつかみ合いの喧嘩を始めました。認知症の患者本人と私は驚いて顔を見合わせました。

話を続けようにも2人とも私の話をまったく聞いていません。

「何よ!」

「先生の言うこと聞きなさいよ!」

言い争っています。

「こちらの説明を聞いてください」

私の言葉は虚しく無視されています。

「妹に顔をぶたれました!」

「はあ?なに言ってんの?」

「ここは病気の診察をする場所です。静かにしてください」

いつまで経ってもおさまりません。ついに私は「うるさい!」と一喝しました。さすがに2人ともびっくりして私の顔を見ました。

「あちらでお待ちくださいね」

すかさず看護師に本人と長女を待合室に連れて行ってもらいました。

これから次女と話をしなければなりません。

これまでの経過

X-4年、夫が他界し長女と二人暮らしになりました。

歩行障害が出現し、杖を使うようになりました。

X-2年、銀行のカードや大切な物をなくすことが多くなりました。同じ場所ではなく毎回違う場所にしまい込んでしまいます。

長女の仕事のスケジュールをあらかじめ話しておいても、忘れてしまいます。紙に書いても管理できません。

長女が頼みごとをしても忘れて出かけてしまうようになりました。

長女と喧嘩することが増え、情緒不安定になりました。「心臓が苦しい」「めまいがする」と訴えて頻繁に救急車を呼ぶようになってしまいました。

X-1年、同居の長女に対して口調がキツくなったということで、当院初診しました。

初診時の症状

もの忘れがあります。複雑な話の理解ができなくなっていました。家事はできません。なんでも面倒だと言います。入浴しなくなりました。

怒りっぽくなり、感情の起伏が激しくなりました。

本人には病識がなく、「忘れることもあると思うけど覚えていないし、自分では何も気になる症状はありません」と言いました。

大事なものを布団の下や下着の中にしまい込み、本人は覚えていません。

意欲が低下しました。長女が促さないと友だちにも会いに行きません。アパシーです。前頭葉機能の低下です。

長女のイライラ

スケジュールを忘れたり、怒りっぽくなった母親と接することで、長女の精神状態に変化がありました。イライラしやすくなったと言います。

喧嘩になることも多く、本人が泣いてしまうということでした。

検査所見

MRIでは、海馬の萎縮を認めました。左右差が顕著でした。前頭葉の硬膜下に隙間が目立ちます。左右差が目立つ大脳萎縮なので、アルツハイマー型認知症だけでなく、嗜銀顆粒性認知症の可能性もあります。

MMSE20点でした。MMSEは、30点満点の簡易な認知機能検査です。できなかった項目は、セブンシリーズと遅延再生、三段階の命令でした。セブンシリーズは100から7を順に引いていく検査です。計算力だけでなく注意力や集中力を見る検査です。遅延再生は記銘力、三段階の命令も記銘力を問われる検査です。

点数から認知症の段階は中等度と考えられました。

まとめると、左右差のある大脳萎縮と、記銘力、集中力の低下が見られました。前頭葉と側頭葉に強い大脳全体の萎縮があります。私は嗜銀顆粒性認知症を疑いました。

治療について相談する

長女と本人を交え、疑われる診断と可能な治療方法について説明しました。抗認知症薬の投与と脳トレなどのアクティビティケアについて説明しました。

すると「薬は飲みたくありません」と本人が言いました。長女も「お母さまは薬が嫌いです。飲まないと思います」と言いました。

薬のなかでも漢方薬なら飲んでくれる人がいます。私は抑肝散を勧めました。本人は「漢方薬なら飲んでみます」と言いました。怒りっぽさを抑える薬です。これで怒りっぽくなくなれば、長女のストレスが減るのではないかと思いました。

長女の理解力

漢方薬を飲み始めました。効果が出るのには1週間以上かかります。長いと10日〜2週間はかかりますので、しっかり飲んでから評価する必要があります。しかし、長女は4日後に1人で来院しました。

「薬が効きません」と言いました。薬を飲んでも次の日から「お財布がない」と言ってパニックになって探し回っているというのです。

薬の効果が出るまでの期間については初診時に説明していたつもりでしたが、長女は理解していませんでした。

「いままで認知症だと思わずに怒ってしまっていました。かわいそうだったと思います。これからは心を入れ替えてがんばります。だから効果がないので漢方薬は飲ませるのをやめることにします」

そう言いました。私はおかしな理屈だと思いましたが、薬をやめることにしました。

次女のこと

長女は、離れて暮らす次女についても語りました。

「お母さまのことを電話で相談しました。そうしたら『旅行にでも行って気分転換したら?』と言ってくれました。妹は、私と違っていろいろなことに気がついてくれる人です。気がきく人なんです。私は気がきかないんです」

次女について語るのを聞いて、むしろ次女が普通の人で、長女が普通ではないような気がしてきました。

病気だと思ってない

「母のことが心配で、しょっちゅう電話してしまいます。毎日毎日、母の状態を確認して、自分のことがおろそかになってしまいます」

長女の話は矛盾していました。

病気だと思って連れてきたのに、病気だと言われると「病気だと思っていない」と言うのです。

母親に対して「怒ってしまう」と言う一方で「心配で毎日確認してしまう」と言います。このような価値観の矛盾は「両価性」といいます。アンビバレンスともいいます。愛憎が同時に存在する状態です。

統合失調症などの精神疾患で見られる症状です。

「母は何でもできるんです。料理も買い物もできます。運動もできるし、言えば日記もつけてくれます。病気だと思っていません。ここに来たのは病気にするためではないんです。だから、先生から病気と言われたのでもう来ません」

時間をおいての再診

もう来ないという言葉の通り、しばらく受診が途絶えました。

しばらくして「代理受診です」と言って長女が来院しました。

「母は、ものがなくなるとイライラして私に聞いてきます。通帳がなくなると夜中ずっと探しています。そして私を叩き起こし、『通帳を出せ』と要求してくるのです。この間それがずっと続いています」

受診していなかった間、毎日それが続いていたというのです。

「通帳だけではなく、鍵や携帯電話もです。友だちに相談したら『認知症は早めに治療を始めたほうがいい』と言われたんです。だから来ました」

そう言いました。友だちに勧められたから来院したというのです。しかし、抗認知症薬については
「母は薬を飲むのを嫌がっているので無理です」とも言いました。

「サプリメントはどうですか?」

認知症に有効とされているサプリメントはいくつかあります。私は当院で扱っているものや、いままでに有効と言われたサプリメントをいくつか紹介しました。

魔術的思考

「でも、母は認知症ではありませんよね。私だって日付や曜日を忘れることがありますし……。誰にでもある症状ですよね」

どうしても病気ではないと思いたいようです。

サプリメントの話が終わると、今度は長女が「いくつか相談したいことがあります」と言い出しました。

「お母さまのことですか?」

「いいえ、違います。個人的に不安に思っていることがあって……教えてほしいんです」

認知症の診療以外のことでも介護の接し方が改善するのであれば、カウンセリングとして相談に乗るようにしています。

「どうぞ、なんでも質問してください」

私はそう言いました。

「テレビで『コロナで人口を減らそうとしている』と言っていました。やはり政府の陰謀なんですか?先生、本当のことを教えてください」

陰謀論です。さらに長女は身を乗り出して興奮気味にまくし立てました。

「私の友だちの知り合いが、ワクチンを打った母親がコロナにかかって死んだと聞きました。ワクチンも人口を減らすための陰謀なんですね? 本当はそうなんですね? その話を聞いて気がつきましたが、私はワクチンを打ってから左半身がおかしいんです。左肩が凝ったり、左手が痺れたりするのはそのせいですよね?」

友だちの知り合いとはどういうことでしょう。デマや噂話のにおいがします。話の論理が破綻しています。長女は何らかの精神疾患なのかもしれません。

私は、コロナウイルス感染症やワクチンについて医学的に正しいことを話しました。しかし、私の説明を聞いて長女はがっかりした様子でした。意に沿わなかったのでしょう。

認知症カフェ

私は長女に認知症カフェに来るように言いました。

当院は認知症カフェを開催しています。当院の認知症カフェの特徴は、介護者のピアカウンセリングの場であることです。当事者も参加可能でいっしょにテーブルを囲みますが、主には介護している人たちが集まります。

長女に認知症カフェを勧めたところ参加しました。そこでほかの介護者の話を聞いて共感が得られたようです。

「母の失敗を指摘してしまうと、母は『私は認知症じゃない!』と怒るんです」

長女は皆の前でそう話し、「みんなそうなのよ」と言われて孤立感が解消したと言いました。

「母が『私は認知症じゃない!』と怒るとき、私も『母は認知症じゃない!』と強く思います。でも、ひどいもの忘れをしている母をみて『認知症なのかもしれない』と、とても心配になるんです」

認知症になった母親をまったく受け入れられていない発言です。

サプリメント信奉

認知症カフェに来るついでに、長女がときどき顔を出すようになりました。

「3年前に父が亡くなってから、母がおかしくなりました。通帳を金庫に保管しているのですが、そこから出して、別の場所にしまうんです。いくら探しても見つからないので6回も再発行しました。その度に手数料がかかって本当に困っています。どうやら私を疑っているようなんです」

長女に対するもの盗られ妄想が原因と考えられました。

「それは『もの盗られ妄想』です。以前に処方した漢方薬を根気よく飲んでみれば治まるかもしれません」

「いえ、薬は怖いと聞いています。飲ませたくありません」

「食事を電子レンジで温めるとき、レンジで使えない食器を使うようになりました。以前はそんなことありませんでした。『食器が違うわよ』と私が注意すると『あなたがそんなこと言うから、私がおかしくなるのよ!』と逆ギレされました。頭に来たので母を殴ってしまいました」

「殴るのは虐待です。あなたかお母さまのどちらかが薬を飲むか、2人別々に生活するべきです」

「薬は飲みません。私は以前、胃のスキルスがんになったとき、サプリメントと食事だけで自分で治しました。だから母も治せます。サプリメントの〇〇はどうですか?」

「そのサプリメントにはエビデンスがありません」

介護うつを否定する

「私は最近、仕事中にも母のことばかりが気になって集中できません。仕事に支障が出ているんです」

「いまのあなたの状態は介護うつです。うつ状態の人はイライラして考えがまとまらなくなります。集中力や注意力が低下して、仕事のミスが増えます。うつの治療が必要です」

「違います。これは私の元からの性格です。介護はすべきもので本で学ぶものではありません。母は歩き方がおかしくなっているので整形外科も受診しなければいけないのですが、ちゃんと治療を受けてくれません」

「歩き方がおかしいのも認知症の症状かもしれません。整形外科的な病気が隠れていないかどうか、一度は受診していただくとよろしいかと思います」

「母は認知症じゃないと思うのです。先生の診断が信じられません。よその病院できちんと診断してもらいたいので紹介状を書いてください」

私と長女の会話はいつまでも噛み合わないまま時間ばかりが経っていきます。あげくに信用できないと言われてしまいました。

認知症疾患医療センターに紹介

医師と患者の相互の信用関係がなければ診療は成り立ちません。長女を待合室で待たせ、地域の認知症疾患医療センター宛てに診療情報提供書を書きました。

認知症疾患医療センターとは、認知症についての専門医療相談、診断および認知症に伴う行動・心理症状(怒りっぽさ・幻覚・妄想など)や、身体合併症への対応を行う医療機関です。自治体ごとに指定されています。

書類を書き終えて次の患者の診察にかかろうとしていると、受付職員が「ちょっと待ってください」と言いに来ました。

「長女がもう一度先生と話をしたいと言っています」

接し方を教えてほしい

もう一度診察室に入ってもらいました。

「私は母に明るく接して、母に安心してもらいたいのです。どうしたらいいのか教えてください。私も不安で夜眠れないのです。近所の内科で睡眠薬をもらいましたが、薬は体に悪いと思い、結局飲んでいません」

長女は不眠になっているようです。

「お母さまがアルツハイマー型認知症の場合には、あなたの接し方が改善するだけで妄想や怒りっぽさがよくなると思います。そのためにはまずあなた自身の介護うつをなんとかしないとなりません。

うつが良くなれば不安も不眠も改善し、気持ちに余裕ができて明るく接することができるようになりますよ。まずは内科からもらった睡眠薬を飲んで、よく寝たほうがよいですよ」

長女はようやく私の話を最後まで聞きました。しかし、薬を飲むとも飲まないとも言いませんでした。

「紹介状ありがとうございました」

と言って帰っていきました。

カウンセリング

翌月、長女は介護カウンセリングを受けに来ました。接し方を教わるためです。

「母は通帳をなくしてイライラしています。それは当たり前のことですよね? 認知症のせいではないと思います。物をなくして私に盗まれたと思って私を叩くのは当たり前ですよね?

私は子どものころ、悪いことをすると両親から殴られました。特に父からは血が出るまで竹刀で叩かれました。悪いことをしたら暴力を受けるのは当たり前のことですよね?

そんな当たり前のことが認知症の症状だと言われて納得がいきません」

長女は児童虐待の被害者だったことが判明しました。

「あなたのご両親はあなたを虐待していたのです。子どもを殴るのは当たり前のことではありません。同じように、悪いことをしたからといってお母さまに暴力を振るうことも虐待です。正常なことではありません」

「病院に殺された」

「それはおかしいですよ、先生。当たり前でしょう? みんなそうなんでしょう? だってみんなそうだと言ってるんだから。先生、嘘をつかないでください」

「みんなって誰のことですか?」

「えー、みんなですよ先生、そんなことも知らないんですか? あ、それから先生が書いてくれた紹介状ですけど、あの病院には行きません。父が殺された病院ですから。別の病院を紹介してください」

「お父さまが最後に入院されていた病院なのですか?」

「そうです。入院中に看護師から罵倒されました。あの病院に殺されたので行きたくありません」

長女はこの病院に被害妄想を抱いています。「看護師に罵倒された」と言いますが、長女がこの調子ですし、何かしらトラブルがあったのではないかと推察されました。

あらためて、別の地域の認知症疾患医療センター宛てに診療情報提供書を作成しました。

認知症疾患医療センターからの返事

翌月、紹介先から診断結果が送付されてきました。

センターでの検査結果は、MMSE18点、画像では中等度の大脳萎縮を認めたとありました。当院での検査から半年経っていました。MMSEは半年前20点でした。2点低下していますので少し進行したようです。

「貴診療所のほうでのご見解と同じと思われます。ご家族、ご本人に抗認知症薬の開始が望ましい旨お伝えしました。貴診療所のほうで投薬についてご検討いただければと思います」

そう締めくくられていました。

次女の登場

それから3カ月。

X年、久しぶりに当院を受診しました。いつも母娘2人で通院していましたが、もう1人います。次女の登場です。本人は手に包帯を巻いていました。

長女が言いました。

「去年の秋よりももの忘れがひどくなりました。毎日、私に『お金がない』と言ってくるのでイライラします。急に怒ったりしますし」

本人が言いました。

「そんなの私、気がつかないです。自分ではもの忘れしないように気をつけていますし、自分では普通だと思っています」

病識が欠如しています。病識欠如はアルツハイマー型認知症でも嗜銀顆粒性認知症でもみられます。

次女が何か言いたそうにしているので私が話しかけようとしましたが、それを遮るようにして長女がたたみかけてきました。
「このサプリメントを飲ませています。飲ませたら吐き気がすると言うのですが、どうしたらいいですか?」

見たことのないサプリメントでした。サプリメント信奉は続いているようです。

虐待のエスカレート

私は言いました。

「そのサプリメントについては見たことがないので調べておきます。

先日受診していただいた〇〇医療センターからお返事が来ました。やはり抗認知症薬を内服したほうがよいというご意見です。この半年で明らかに認知症が悪化しています。進行を抑制するために服用してはいかがでしょうか」

「薬は飲みたくありません」

本人が即答しました。

そこでやっと次女が口を挟みました。

「姉が母を殴って怪我をさせたんです」

本人の手の包帯を指して言いました。

私は本人に聞きました。

「その怪我はどうしたのですか?」

「つまづいて転んで手をついたら骨折しました」

次女の顔色がサッと変わりました。

「違うでしょ、お母さん。お姉ちゃんに突き飛ばされたんでしょう?」

次女の関わり

次女は言いました。

「去年の秋ごろから姉の様子がおかしいので、週1回ぐらい実家に行くようにしたのです。すると、母のもの忘れがひどいことがわかりました。

今年になってからは、母が姉に押し倒されて腰を打ったと言って、身動きが取れなかったので私の家に一時引き取りました。良くなったので、また実家に帰ってもらいました。

実家に帰すときに心配なので、地域包括支援センターに相談に行きました。

地域包括支援センターのケアマネジャーさんが家に来たので相談し、デイサービスに行かせるようにしています。ショートステイの話もありましたが、まだやっていません」

姉妹の攻防

次女は一気に話すと、バッグからパンフレットを取り出して長女に見せました。区の広報誌でした。地域包括支援センターの担当者が次女に渡したのでしょう。

「私はお姉さんに介護教室に通ってもらいたいんです。区でやっていて1回200円です。お姉さん、これに行ってください」

次女は区の広報誌を長女に渡そうとしました。手元に押し付けられた広報誌を長女は押し返しました。

「何よそれ。知らないわよ」

「だからこれを読んで、介護のことを勉強して。悩みの相談もしてくれるというから」

「そんなのいらないわよ」

私は長女を治療する必要を感じました。

「お姉さまは介護うつですね。調子が悪そうなので治療したほうがいいと思います。保険証を持っていますか?」

「いやです! 私は絶対薬を飲みません! 治療も受けません!」

そして冒頭の喧嘩に発展しました。

次女と話す

なんとか本人と長女を待合室に誘導し、私は次女と話しました。
「お姉さまは病気だと思います。正常な判断力を失っています。介護うつなのか、統合失調症なのかわかりませんが、いずれにしても治療が必要です」

次女は言いました。

「私は嫁いでから20年ほど実家と連絡をとっていませんでした。父が亡くなってからときどき姉が電話してくるようになって、関わり始めたのは本当に最近のことなのです」

「お姉さまとお母さまがいっしょにいることがよくないのです。離したほうがよいでしょう。お母さまをあなたの家に引き取れませんか?」

「短い期間なら可能ですが、共働きですし、夫もいい顔をしません。難しいです」

「それでは、お母さまを認知症専門病院に入院させましょう。どうやらお姉さまはお母さまに頻繁に暴力を振るっているようです。打ちどころが悪ければ命に関わることもありますよ」

「入院したら認知症が進むと聞きました。それが心配なので入院はさせたくありません」

入院か虐待か

よく聞く話です。「入院すると認知症が進む」という話です。

入院すると認知症が進むのでしょうか。そうとは限りません。身体疾患で入院中にせん妄になることはあるでしょう。一般病棟や療養病棟に長期入院していれば、そのあいだに認知症が進行するでしょう。

しかし、短期間の入院で認知症が進行することはありません。せん妄になることや、混乱して一見能力が低下したように見えることはありますが、大脳の変性が短期間に早く進んでしまうとは考えられません。

生命のことを考えましょう。虐待されて生命を失うかもしれないことと、一時的に認知症が進んだようになることのどちらが重大なデメリットなのでしょうか。どちらが本人にとっての適切な選択なのでしょうか。

私は次女に言いました。

「どうしても入院が嫌なら行政に介入してもらい、虐待されている人のためのシェルターに入れてもらいましょう。そのためには地域包括支援センターの担当者に協力してもらわねばなりません」

「虐待通報したら姉は警察に逮捕されるのではありませんか? 身内から犯罪者を出したくないのです」

「そのようなことにはなりません。むしろお姉さまを犯罪者にしないために虐待通報するのです。シェルターに入ったら、お姉さまがお母さまに会うことはできません」

「会えなくなるのはかわいそうです。どうしていいのかわかりません」

次女は判断できませんでした。

地域包括支援センターからの電話

その翌日、地域包括支援センターから私に電話がありました。

「昨日、次女が相談に来ました。入院を勧められたのを断ってしまい、どうしたらいいのかわからないとおっしゃっていました。

こちらでは以前から虐待疑いでマークしていたケースです。先生の意見を聞かせてください」

私はこれまでの経緯を説明しました。最後に「入院させたほうがよいと思います」と言いました。

「長女をと言うことですか?」

私の意図とは違い、長女を入院させたほうがよいと思っている様子です。地域包括支援センターの担当者も長女の精神疾患を疑っていました。

「長女に治療を勧めましたが頑強に拒否しました。難しいと思います。ですからお母さまのほうを入院させたいと思っています」

「承知しました。区役所と相談して対処します」

本人に何かが起こる前に解決するのでしょうか。どうか間に合いますように。私は心の中で祈りました。

西村知香
認知症専門クリニック「くるみクリニック」院長。神経内科医。認知症専門医。介護支援専門員(ケアマネージャー)。1990年横浜市立大学医学部卒業。1993年同医学部神経内科助手、1994年三浦市立病院、1998年七沢リハビリテーション病院、2001年医療法人社団・北野朋友会松戸神経内科診療部長を経て、2002年東京都世田谷区に認知症専門のくるみクリニックを開業。

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