もうすぐクリスマスですね。
クリスマスは家族と過ごしたり、ロマンチックに恋人と過ごす人もいるでしょう。アルツハイマー型認知症は、記銘力障害から始まり、最近の記憶がなくなり、過去に記憶が遡っていき、記憶の時系列が混乱していく病気でもあります。
この季節に思い出した、ある患者さんの話を聞いてください。
いまでも毎年、夏になるとヨーロッパから彼が帰国するというのです。そして、2人で夏山を縦走するのです。何日もかけて、長野の3000m級の山を。
そんなことが本当にあるのでしょうか……。
これまでの経過
本人は長野県出身です。生まれ故郷は3000m級の山々に囲まれていました。父は幼少期に戦死、母は中学生のときに他界し、祖母に育てられました。従姉妹がいますが疎遠です。中学卒業後に工場に勤め、その後上京して大手の花屋に就職、定年まで勤めました。結婚歴はありません。
X-10年、60歳で花屋を定年退職し、マンション清掃の仕事に就きました。
認知症のはじまり
X-5年、友人グループで化粧品の共同購入をしていました。本人はその世話人でした。このころから徐々に注文を忘れるようになりました。
X-1年、金銭管理ができなくなり、友人にお金を借りるようになりました。
X年、友人に付き添われ、地域包括支援センターに相談に来ました。物忘れがひどかったにもかかわらず、医療機関受診を拒否しており、区が主催する「もの忘れ相談」に参加しました。
病識がない
本人に病識がなく、また「親戚に不幸があり、長野に帰省する」などと「もの忘れ相談」を何度かキャンセルしました。友人が同行して、何度目かにようやく相談につながりました。
もの忘れ相談は専門医などが面接します。病歴や症状を詳しく聞き、必要時にはMMSEなどの簡単な知能検査を行います。経過観察でよいのか、精密検査を要するのか判断し、精密検査が必要となれば、しかるべき医療機関への受診を促します。
この人は、相談医が「アルツハイマー型認知症の可能性が濃厚」と判断し、大きな病院の神経内科を受診することになりました。「もの忘れで発症し、病識がない」のは、アルツハイマー型認知症の可能性が高いのです。
なかなか受診につながらない
ところが、この受診も「夏はヨーロッパから彼が帰国して、長野の山を何日もかけて縦走するので行けません」とか、「親戚のお墓参りがあるので長野に行きます」など、何度かキャンセルしました。
それでもやっと、何度目かに、友人の同行で受診することができました。脳の画像検査、MRIや、脳血流の検査、SPECTが行われました。そして、アルツハイマー型認知症と診断されました。しばらく通院し、抗認知症薬を調整しましょうということになりました。
通院介助ヘルパーの導入
「通院は1人で行ける」と主張するので、試しに1人で行かせてみたところ、下車する駅名もわからず、診察券や健康保険証の管理もできなかったので通院介助ヘルパーを入れました。
ここで、大病院での待ち時間の長さがネックになりました。ヘルパーはサービスの時間が決まっています。病院の待ち時間は、その日の患者数や重症者の有無、急患などによって変動します。時間が読めないということで、通院介助では大きな病院に通院を継続することが難しくなりました。そして、当院に転院してきました。
本人の暮らしぶり
初診時、身寄りがないので地域包括支援センターの担当者が付き添ってきました。MMSE18点でした。記銘力障害と時間的見当識障害が顕著で、すでに中等度の認知症の状態でした。当院では初診時に必ず趣味を聞くのですが、趣味は山登りと書道とのことでした。
包括の担当者は、訪問時の自宅内での様子を教えてくれました。記憶は数十分しか持ちません。物忘れを指摘されると取り繕いが見られます。人当たりは良く、いつもにこやかです。しかし、深刻な話になっても深刻味がなく、感情は平板化しています。
常に探し物をしていて、カバンの中身を出したり入れたりしています。地域包括支援センターの担当者の顔は、何度も訪問しているためか、なんとなく覚えました。しかし「顔見知り」という程度の認識で、属性や氏名は出てきません。自分の友人ではない、ということがわかるくらいです。
自宅内には郵便物や書類が積み上げられていて、処理できていません。家中のいたる所に大量のメモが貼り付けられています。自分で貼ったのです。認知症が軽いころには自分でこうやってカバーしていたようです。携帯電話の料金が未納になっており、止められていました。
コンロや流し台に料理をしている形跡はありません。
マンション清掃の仕事はまだ続けており、週4回通っています。仕事のときは1人なので同僚はおらず、ちゃんと仕事できているか確認できる人はいません。
進行予防を図る
地域包括支援センターの担当者の意見では、「一人暮らしで身寄りもなく、薬を処方されてもちゃんと飲めないのではないかと思います」とのことでした。たしかに時間的見当識障害があったので、薬の管理は難しいと考えられました。
介護保険サービスで1日1回ヘルパーが入り、服薬管理が可能とのことでしたので1日1回の管理で良いアリセプト®︎を開始しました。
抗認知症薬は4種類ありますが、1日1回投与の薬はアリセプト®︎、中等症以上の患者に使うメマリー®︎、貼付薬のリバスタッチパッチ®︎/イクセロンパッチ®︎があります。そのほかに1日2回投与のレミニール®︎があります。この人の場合は、まずはアリセプト®︎を開始しました。
カレンダーに貼り、ヘルパーが促して服用をさせようとしましたが、本人が「そんなことしなくても飲める」と拒否したので介入が難しくなりました。進行予防のためデイサービス通所も導入しようとしましたが、こちらも嫌がり、すぐには契約できませんでした。
訪問看護の導入
マンション清掃の仕事はスケジュール管理ができなくなっていました。出勤日ではない日にも行って働いてしまいます。
X+1年、相変わらず介入に拒否的でした。通帳を紛失し金銭管理にも援助が必要になりました。介入の糸口を探り、訪問看護を入れてみることにしました。
本人は「仕事に行っているし、薬もちゃんと自分で飲めている。あと10年は働きたいです」と言いました。実際は薬は飲み忘れていますし、出勤日ではない日にもマンションに行ってしまっています。社会的手続きは一切できなくなっています。支払いが滞り、督促状が溜まっていました。現金もたびたび紛失しており、訪問看護師の訪問中に思わぬところから現金が見つかることもありました。
薬剤管理は訪問看護だけではカバーしきれず、薬局による居宅療養管理指導を導入することになりました。
夏山登山
保険証を忘れてくるようになりました。金銭管理のために、成年後見制度の利用を勧めましたが、本人は「そんなの自分が惨めです。嫌です」とはっきり拒絶しました。
「毎年、親しい知人男性と夏山登山をすることが恒例となっています。今年も元気に出かけることが目標です」と語ります。夏は3000m級の山を縦走するというのです。
気さくな人柄で、「友だちと出かけた」「会社の友人が近所にいて、よく会う」などと言いますが、真偽のほどは不明です。この3000m級の山の縦走についても、本当かどうかは不明です。
診察時に話をしていると、「8月初めに3000m級の山に行きます。どこの山に登るかはまだ決まっていません。3泊くらいの行程で、ゆっくりとした無理のない山行です。一緒に登るのは幼馴染の彼です。一人っ子だったので婿養子をとる方式で相手を探していたら、結局結婚できませんでした。幼馴染の彼が好きだったけど、いまは友だち。悔いはないし、楽しく生きています」と言います。
その彼が毎年ヨーロッパから帰国して、一緒に山に登るというのです。なんとロマンチックな話でしょう。
管理機能の低下
訪問看護師からの報告書では、薬剤の飲み忘れが多く、残薬多数ありとのことでした。また、訪問看護師の訪問日を忘れており、不在であることも多かったようです。
薬局に支払いしたことを忘れて、何度も支払う重複支払いもありました。自宅の台所ではコンロの周りに燃えやすいものが多数置いてあり、火災の恐れありとのことでした。
山登り
秋の来院の際に「(夏の)山登りはどうでしたか?」と尋ねてみました。
「彼が迎えに来て、行ってきました。北岳です。山梨県の甲府市からバスに乗って、山小屋2泊、温泉1泊です。子どものころからの幼馴染の彼なので、気の置けない山行でした。父を戦争で亡くして男の兄弟もいなかったので、彼は家族みたいな人です」
私も山登りをするので、山の話に花が咲くこともありました。その後も「長野に住んでいたころは御嶽山にも登りました」など話してくれました。
財布、インフルエンザの接種票、当院の診察券など、いろいろなものを紛失しました。薬手帳もなくなり再発行してもらいました。そのうち処方箋もなくすようになりました。これも再発行しました。
「マンションの掃除をしています。毎年夏に行く山登りが生きがいです」診察のたびに、そう話していました。
徐々に認知機能が低下する
X+2年、「片道徒歩30分のマンションの往復が山登りのための運動になっています」と言います。「ヨーロッパでオランダ人の女性と結婚した彼がときどき帰国して、一緒に山に行ってくれます。いつでも山に行けるように、マンションの掃除の仕事はやめられません。がんばります」
清掃の仕事は、5階建てのエレベーターがないマンションで、何度も階段を登り降りしなければなりません。「マンションの掃除の仕事のおかげで、昨年、北岳に行ったときも筋肉痛にもならず、下山後にもすぐに仕事に行けるくらい元気でした」と言います。
このときすでに72歳でしたが、「あと何年かで70歳だから、いつまで山登りができるかわからない」と言います。自分の年齢の認識は、認知症を発症したころの60歳代後半で止まっているようでした。
保険証の再発行はすでに3回を数えていました。見当識障害が悪化し、初夏に秋だと思っています。
「今日は財布がありませんでした」と通院介助ヘルパーが言います。
山登りに行けない
「彼はお母さんの介護があり、今年は一緒に山登りに行けませんでした」前年と違い、夏山の縦走はできなかったようです。
携帯電話を紛失しました。行きつけの美容院にたどりつけなくなりました。ケアマネジャーやヘルパーへの支払いが滞るようになりました。
疎遠になっていた従姉妹の登場
X+3年、疎遠と言っていた従姉妹が初めて当院に一緒に来院しました。従姉妹は久しぶりに本人に会い、認知症の症状に驚き、援助をすることになりました。
しかし、本人は保険証など大事なものを人に預けることを強く拒否しました。それでも支払いが滞っていたものはすべて従姉妹が代行して支払ってあげました。また、通販で月に数万円もするドリンク剤を定期購入していたので、これも従姉妹が購入を停止してあげました。マンション清掃は月3万円ほどの手取りで、そのほかに数万円の年金収入だけでしたので、月に数万円もするドリンク剤を継続することは無理でした。
セルフケア不足、判断力の低下
爪を切らなくなりました。
読まない新聞を契約してしまいました。また、牛乳も飲まないのに契約しました。読んでいない新聞や飲まない牛乳がどんどん溜まっていきました。当院やケアマネジャーが従姉妹に連絡して、どんどん解約してもらいました。
新たに関わり始めた従姉妹がいろいろ援助してくれるようになりましたが、本人が契約してしまったり、失敗したことの尻拭いが増え、負担が重くなりました。そのためか、従姉妹は本人を厳しく責めるようになりました。従姉妹に怒られると、本人は閉居傾向となり、マンションの仕事以外の外出を控えるようになりました。
ヘルパーはいままで通り定期的に入っていました。冷蔵庫をチェックしてもらっていました。以前は外出のたびにいろいろな惣菜を購入してしまい、冷蔵庫内には食材がぎっしり詰まっており腐るなどしていたのですが、最近は空の皿が入っていることが増え、食料がほとんど入らなくなりました。買い物に行かなくなったためでした。
そして、徐々に体重が減少しました。従姉妹に怒られるので、家に閉じこもり、常に緊張している様子でした。
診察では「夏になるとヨーロッパに住んでいる彼が来て、一緒に長野に行きました。今年は山に登らず、一緒にお墓参りに行きました。彼を見送りに成田に行ってきました」と話していました。ヘルパーもケアマネジャーも、それが事実かどうか知りません。私にもわかりません。従姉妹も知らないと言います。
生活能力の低下
ヘルパー付き添いでの買い物をしていましたが、買うものを選ぶのが難しくなっていました。また、レジでの支払いの仕方もわからないので、ヘルパーが代わりに支払います。冷蔵庫内は食器がぎっしり詰まっていおり、食品はまったくありません。
外のゴミ置き場から空き缶を拾ってきて、家にため込み始めました。最初は空き缶だけでしたが、やがてヨーグルトや牛乳の空き容器も拾ってくるようになりました。
訪問販売の牛乳や乳飲料の広告、ダイレクトメールなどのチラシも大量に取ってあり、請求書も混じっていました。家の中に食べられるものがほとんど置いてありません。
穴が開いて傷んだ服、染みだらけのズボンを穿いています。暑いのにエアコンをつけておらず、蒸し風呂のようななかに座っています。
経済搾取
ヘルパーが訪問時に、乳飲料の訪問販売員が本人に高価な化粧品を売りつけている現場を発見しました。私やケアマネジャーが連絡し、化粧品を売らないでほしいと頼みました。
診察のたびに「長野の親戚で不幸があり、行ってきました」と言います。初診時に聞いた話と同じです。本当に不幸があり長野に行ったのか確認できません。現在の認知機能で、1人で長野に旅をするのは困難と思われました。作話の可能性が高いです。
「親戚の不幸で、自分が死んだときのことを想像してしまい、心配になりました」と言います。
従姉妹へのライバル心
X+4年、エアコンをつけたつもりでついていません。コンセントが抜けていることに気がつきません。
鍵や金銭を紛失し、いつも探しています。たんすにお皿をしまうようになりました。外から拾ってきた空き缶などで家の中が狭くなってきました。収集癖です。前頭葉機能の低下による症状です。
キーパーソンである従姉妹はきついことを言うので本人に嫌われてしまい、なかなか介入できなくなりました。
従姉妹は同い年で、従姉妹の前に出るとライバル心が強くなり、「私はなんでもできる、援助は必要ない」と拒否的になってしまうのです。
金銭トラブル
前の年の年末におせちを注文し、着払いだったのにお金を支払わずトラブルになりました。
なくした鍵が出てきましたが、すでに鍵を新しくしていたので開きません。本人は家に入れなくなり、玄関前で座っていました。
同じころ、自宅に食料がほとんどないのでケアマネジャーに相談し、配食サービスを入れてもらいました。
玄関の鍵をかけずに外出することも増えました。薬剤師が本人宅を訪れると、家の中のあちらこちらから古い薬が出てきます。
食生活
配食サービスを受け入れるのかどうかが懸念されましたが、なじむことができました。本人は、弁当を受け取ると喜んで食べるようになりました。うまくいったので、毎日配食サービスを入れることになりました。そして配食サービスの担当者が訪問をした際に、声かけして本人に薬の服用を促すというリズムができました。
マンション清掃の仕事にはまだ通っていました。1人の職場なので、仕事ができているのかどうか、確かめられる人はいません。
入浴しないので足趾の間に水虫ができました。訪問看護師に足浴をしてもらうことにしました。MMSE15点に低下しました。やや重度です。
頭皮を洗わなくなり異臭がします。訪問看護師に洗髪をお願いしました。身なりが汚くなり異臭がするので、仕事先のマンション住人から苦情が相次ぎ、マンション清掃の仕事を解雇されました。
解雇されても本人は解雇されたことを忘れ、いままで通り職場に行ってしまいます。
彼は来ているのか?
お盆が終わった8月の末、診察場面で「長野の実家のお墓参りに行きます。その後でお盆に山登りに行く予定です」と言いました。
「ヨーロッパに住んでいる彼は、日本に来ているのですか?」と尋ねると「もう来ているような気がします」と漠然とした答えが返ってきました。このとき、8月末でまだ暑かったのですが、ウールのセーターを着込んで汗だくになっていました。
9月の受診時には、「お盆で、お墓の掃除をしてきました。ヨーロッパから彼が来て、いま日本にいます。でもまだ連絡がありません」と言います。珍しくお化粧をしていますが、チークを顔全体に塗り、真っ赤になっています。お化粧は女らしさの発露でしょうか。彼に対するアピールなのでしょうか。
宗教の勧誘
10月、新興宗教の集会に参加しているとの情報が入りました。診察時に本人に聞いても記憶にありません。マンション清掃の仕事がなくなり、家にいる時間が長くなり、宗教の勧誘などが頻繁に来るようになったようでした。経済搾取の可能性があります。
ケアマネジャーに依頼して、デイサービスを開始しました。日中家にいなければ種々の経済搾取にあわずにすみます。
洗髪、洗身ができていなかったので、デイサービスで入浴してもらうことにしました。このころには介護に対する拒否もなく、スムーズに導入することができました。デイサービスを週3回、配食サービスを毎日、訪問看護を週1回、訪問薬剤管理指導を週1回と、手厚い介護サービスを行ないました。
人物的見当識
従姉妹を認識できなくなり、顔を見て「奥さん、どちらの方?」と尋ねたとのことでした。人物的見当識障害です。会話も噛み合わなくなってきました。
デイサービスには意外と馴染み、楽しそうに参加していました。参加中に両便失禁をたびたび確認するようになりました。
過去に遡る
診察時に「おばあちゃんと二人暮らしです」と言うようになりました。父が戦死、母が中学生のときに他界し、中学を卒業して社会人になるまで祖母に育てられたのです。その記憶に遡っていました。
X+5年、年始早々、肺炎にかかりました。腐った弁当を食べ、嘔吐して、嚥下性肺炎になったのです。入院中にせん妄状態となり、病棟内を徘徊し、無断離棟の可能性があったため体幹拘束されました。セロクエル®︎、リスパダール®︎が処方されました。どちらも非定型抗精神病薬です。せん妄の治療に使われることがあります。化学的抑制ともいわれます。
退院後、最初の診察時に私の顔を見て「先日は車で送っていただきありがとうございました」とお礼を言われました。誰と間違えているのでしょう。
抗精神病薬の副作用
背中が丸くなり、すり足で、小刻み歩行になっていました。セロクエル®︎とリスパダール®︎の副作用による薬剤性パーキンソン症候群です。
パーキンソン症候群による姿勢反射障害が見られました。転倒して腰椎圧迫骨折しました。セロクエル®︎もリスパダール®︎も中止しました。
「うちに、お母さんがいます」と言いました。中学生のときに他界した母のことです。さらに記憶が遡ったようです。60年ほど前の記憶です。それにも関わらず「マンション清掃のお仕事に通っています」と、1年前のことも、いまのことのように話します。記憶の時系列の混乱です。
このような症状は、アルツハイマー型認知症の後期の症状です。そろそろ施設入所が必要です。このとき要介護2でした。まだ特別養護老人ホームは申し込めません。
従姉妹の援助が途絶える
お泊まりデイサービスに泊まることになりました。従姉妹の顔がわからなくなり、援助がたいへんになったので、従姉妹が関わりを拒絶しました。もともと本人と仲が良かったわけでもなく、疎遠でした。
関わりの当初は、同い年の従姉妹に対する反発心が強く、介入に難渋しました。それでも従姉妹は、いろいろと援助してくれました。そんな従姉妹に対して、本人から感謝の言葉はありませんでした。病識欠如のためです。「自分は何ともないのに、お節介にいろいろ言ってくる」と思っていたので、従姉妹が援助に入っても反発ばかりでした。
従姉妹は、疲れてしまいました。
従姉妹以外の援助者
区長申し立てで後見申請し、第三者後見人をつける運びになりました。私が後見診断書を作成しました。
「おばあちゃんと暮らしている」「お母さんと暮らしている」と、診察のたびに言います。実際にはお泊まりデイサービスで暮らしています。夜間尿失禁するので、リハビリパンツを使用するようになりました。
「いまはおばあちゃん、お母さんと暮らしています。男手がないみたいで、お母さんは私のために仕事をしています。私が会社へ行って、お母さんも近くの職場に行って、おばあちゃんが、まだ元気でいるものだから、ご飯の支度とかをしてくれていて。おばあちゃんとお母さんと3人で暮らしています。2人にはいつまでも元気でいてもらいたいです。でないと、ひとりぼっちになってしまうから……寂しいのはいやなので」
ついに3人で暮らしていることになりました。
従姉妹が援助をしなくなったので、薬局や介護事業所への支払いが滞っていましたが、新たな後見人が決まり、すべて精算できました。
心の中の恋人
「会社に行って、休みのときは家にいます」
花屋に勤めていたときのことでしょうか。いま入っているお泊まりデイサービスを会社だと思っているようです。
X+6年、「会社に行っています。一人っ子で寂しいので、会社が好きです。ご飯も出るし、不自由していません。お母さんが働いて、実家にはおばあちゃんがいます。年に1回、お盆に帰ります。そのころには、毎年ヨーロッパに住んでいる彼が迎えに来て、故郷の長野で3000m級の山を2人で何日もかけて縦走します。そのためにお仕事をがんばっています」
診察のたびに笑顔でそう語ります。要介護3になりました。特別養護老人ホームを申し込みました。そしてこの年の秋、特別養護老人ホームに入所しました。
彼女の心のなかには、いつまでも彼と縦走した夏山の思い出が残っていてほしいと思うのです。
認知症専門クリニック「くるみクリニック」院長。神経内科医。認知症専門医。介護支援専門員(ケアマネージャー)。1990年横浜市立大学医学部卒業。1993年同医学部神経内科助手、1994年三浦市立病院、1998年七沢リハビリテーション病院、2001年医療法人社団・北野朋友会松戸神経内科診療部長を経て、2002年東京都世田谷区に認知症専門のくるみクリニックを開業。