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1.女性アルコール依存症当事者から、支援する側に

「飲んで死んだら本望じゃ」「私の体は酒でできとる。酒とったら死んでしまう!」「そんなに飲んでない」「もーいやじゃー!殺してくれ~」。

こうした酒飲み語録を、私は相手が医者であろうと、ソーシャルワーカー(以下SW)であろうと、家族であろうと、常に吐きまくっていました。家族や近所の人たち、勤務先ともお酒によるトラブルを数え切れないほど起こし、お酒に振り回される日々。お酒を止めようと何度決意しても止められず、苦しくて、もう死なないと止められないとリストカット、飛び降り、睡眠薬とアルコールの多量摂取など自殺未遂を繰り返しました。

依存症治療どころか、依存症そのものにどっぷりとハマっていたアルコール依存症患者本人である私が、なぜここでコラムを書いているのか (;^ω^)。それは、私が底なし沼にずぶずぶと沈むたびに、諦めず何度でも引き上げてくれた方々がいたからです。そのおかげで私は生き、精神福祉士・社会福祉士として依存症支援につながる活動をするハマったさんになったのです。

2.心を守るために酒を飲み、手に入れた幸せは徐々に壊れていった

私は広島の小さな町で生まれ育ちました。家中が父の暴力で支配され、母は父に加担する機能不全の家庭のなかで、だれにも助けてもらえずに人間不信に陥り、常に人の顔色を窺っていました。友達を作るのが下手で寂しがり屋の私は、嫌なことを忘れるために16歳からお酒を飲み始めます。そして、京都の大学に進学し、卒業してすぐ結婚しました。幸せな家庭への憧れは強く、夢は優しいお母さんになること。結婚して子供ができれば、この言いようのない寂しさや辛さ、酒癖の悪さ、いろんなことが何もかも解決すると思っていたのです。

しかし、主人の勤務先である九州でスタートした結婚生活は思い描いていたものとはかけ離れていていました。見知らぬ土地で望んだ子供はできず、近所から楽しそうな親子の声が聞こえてくるのが苦痛で、すべてに蓋をするために朝から酒を飲むようになりました。結婚して幸せなはずなのに心にぽっかり穴が開き、それを埋めるように流し込む酒の量はどんどん増えていきました。摂食障害もひどくなり、食べては吐き、身体はもうボロボロ。飲酒運転も常習で、ある時、とうとうガードレールに激突しました。泥酔していた私は通報してくれた人や駆けつけてくれた救急隊員に悪態をつき、殴ったり蹴ったり真夜中にギャーギャー大暴れ。やっと病院に担ぎ込まれ、仕事に疲れた主人が迎えにきたということもありました。

結婚して2年。主人は憔悴しきっていました。九州に遊びにきた家族が何も食べずに酒を飲み続ける私を見て異常な状況に気付きました。その頃には近所とのトラブルが多発していて住みづらくなっていたこともあり、広島に戻って摂食障害による栄養失調の治療で内科に入院。その後、内科と精神科の入退院を十数回繰り返すことになります。

3.信頼できるSWとの出会いが人生を変えるきっかけに

当時の私は脳萎縮、ムーンフェイス、腹水、クモ状血腫、振戦、異常数値のγ、痛風、尿路結石、無月経、骨折。アルコール依存症の症状のほぼフルコース状態でした。私を回復させるために医療関係者や家族など、さまざまな人がかかわってくれましたが、私にとっては「アルコールはぜったいに自分を裏切らない魔法の水」であり、それを取り上げようとする人たちは敵。敵に心を開けるはずもなく、周りは得体のしれない“のっぺらぼう”だらけ。そこから逃れるために何度も脱走し、退院してもすぐ再飲酒してまた病室へ逆戻りしていました(詳細はたかりこチャンネル参照 https://youtu.be/-N7ZTbkmQ-k)。

この無限ループを断ち切ってくれたのが、最後につながった精神科病院のSWたちでした。彼らとの出会いと信頼関係が今の私のSW活動の基礎を作ってくれたといっても過言ではありません。私が何度スリップしても、手を変え品を変えてかかわってくれて、「もうどうでもいいです」と自暴自棄になる私に匙を投げず、真摯に向き合ってくれました。

断酒会を教えてくれたのも彼らでした。会のメンバーと初めて会ったとき、「自分と同じような人がいる!」と衝撃を受けたことは今でも忘れられません。それからは「なんで生きているんだろう」「朝なんか来なければいい!」と死ぬことばかり考えていた私が少しずつ変わっていきました。あんなに止められなかったお酒も止めることができ、精神科というのは人を変えてしまう場所だ、こんなすごい仕事はないと感動し、専門職を目指すという目標を持つこともできました。

4.自分のようなアルコール依存症の女性の力になりたい!

しかし、度重なるスリップの経験から、無理をしてはいけない、焦ってはいけない、頑張ってはいけないと自分に言い聞かせ、自分の体調に合う生活を心掛けました。その頃は不妊不育を経て授かった双子の子育てや、立ち上げた会社の業務に追われる忙しい毎日を送り、周りにも自分の病気をカミングアウトしていたので気持ちを吐き出す必要もなく、断酒会には年に1回行くか行かないかになっていました。

子育てと仕事がひと段落し、「このままでいいのかな」と何か言いようのない気持ちが湧いてきたとき、断酒後の目標を思い出して精神福祉士・社会福祉士の資格を取りました。その後はASK認定依存症予防教育アドバイザーとして、医療関係者・学生・経営者・地域の方々への啓発活動を実施。また、有志とともに女性専用のアルコール依存症チャットルーム『RoomDA』を開設しました。子育てや介護で外出できなかったり、自助グループは男性が多くて参加するのに抵抗がある女性たちが続々と参加してくれています。

『RoomDA』の活動を通して自分と同じような、いやそれ以上に苦しんでいる女性たちがこんなにもいるということ、それをサポートする社会資源が少ないことを知り、チャットからZoomを使ったオンラインミーティング、そしてリアルの自助グループへとつながる架け橋になるよう努めてきました。今も「何日断酒できた」「飲みたいけれど、みんな我慢してるんだよね」と参加者がチャットに書き込みつつ断酒を継続していく様子を見ていると、自分もこうだったのかなと自身を客観的に振り返ることができ、当時気付かなかったことも発見できるなど、自分の断酒へのモチベーションになっています。

5.人って変わる!変われる!

私は昨年サービス管理責任者を取得し、今年4月からアルコール依存症の女性限定のグループホームを開所しました。還暦近くになり、友人たちはそろそろのんびりしようというときなのに、こんな大借金を作って大丈夫なのかなぁと思いますが、「ハマったさん」というより「ハマってしまったさん」なので仕方ないですね。社会資源の1つになれるようがんばります。

人生を変えるきっかけをくれたあの病院のSWが、退院時に私に掛けてくれた「しんどくなったら、いつでも来てね」という言葉をお守りに、これからも“のっぺらぼう”ではない、ちゃんと顔の見えるSWを目指していきます。

末筆にはなりますが、今回コラムを書く機会を与えてくださった昭和大学付属烏山病院の常岡先生に感謝申し上げます。ありがとうございました。

プロフィール:上堂薗順代(かみどうぞののぶよ)
ジェイ・ワークス株式会社(看板屋)代表取締役
女性限定依存症のグループホームJ's 運営
ASK認定依存症予防教育アドバイザー

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