前回までのあらすじ
病棟が整理整頓されている理由について寺内から説明を受けた榛葉。説明のなかで「ミッション」と「デューティー」という言葉にとまどいながら患者さんのもとに向かった。
数日間のオリエンテーションと院内の様子を見て、榛葉は今までの病院よりもここはスタッフの笑顔が多いと感じていた。研修で、ディズニーのパークに入ることをインパといい、すべてのキャストはパーク内はオンステージという心構えで行動していると教わった。病院内での看護師の対応は、患者や家族の目に見える部分でもある。院内をステージと捉えるかどうかはさておき、ここのスタッフは常に見られていることを意識し、プロフェッショナルとして振る舞っているようだった。
実際の勤務は、バディの寺内とともに一日の流れや病院の施設、システムを学ぶシャドーイングからだった。いまさらシャドーイングと思いつつも電子カルテの使用方法や検査時の連絡先など、新たに覚えなければならないことはたくさんあった。
「一度で覚えるのは難しいし、わからないことがあったら遠慮せず聞いてね。何度でも説明するから」と寺内がにこやかに言ってくれたのが救いだった。今まではわからないことがあっても自分で調べないといけなかったし、説明されたことは一度で覚えないと怒られていた。本当になんでも聞いていいのだろうかと戸惑いながら、榛葉は手持ちのメモにできる限り書き込んでいく。新しい職場で最初からつまずくわけにはいかない。
病室へ入る寺内について行く。寺内は病床のカーテンを開けて患者の顔を覗き込み「おはようございます、加藤さん。今日は天気が良いですよ。外はちょっと気温が低いですけどね。四月十五日の九時半です。少し手が冷たいですね」と、声をかけながらバイタルサインのチェックを始めた。事前の情報では、加藤は認知症があるうえに脳梗塞の後遺症で意識レベルも悪くなっており、今回は心不全の急性増悪での入院だった。連日の看護記録を読んでもアイコンタクトがいいところで、発語や体動は見られないということだった。挨拶にももちろん反応しない。それでも寺内は、加藤に日時や気温を伝えて会話するかのように話しかけていた。
こういうとき、今までの自分はどうしていただろうかと榛葉は思い返した。新人の頃はこんなふうに声かけをしていた。学生時代はもっとやっていたかもしれない。けれど入職して一年、二年と経ち、受け持つ部屋数が増えて業務が忙しくなっていくにつれて、こうした声かけをすることはなくなっていた。
(私のやりたかったことを、当たり前に行っている……)
寺内がキビキビと動く様子を見ていると、そもそも看護の基本中の基本すら業務の忙しさを理由に蔑ろにしておきながら、この病院で一流の看護やホスピタリティを学びたいと思っていた自分が恥ずかしくなった。
(この気持ちを忘れないようにしよう。もう一度初心に戻ってやってみよう)と榛葉は強く思った。
「加藤さんね、時々脈が抜けるの。あと、脳梗塞の後遺症で右麻痺があって、右側の橈骨動脈の触れが弱くて冷たくなりやすいからね」と寺内が言うので、榛葉は自分でも動脈触知の左右差を確かめようと、加藤の手を取った。右手は確かに左手よりも冷たく感じた。
拘縮する手を握りながら脈の確認をしようとしたとき、
「あっ、加藤さん。わかりますか?」
と寺内が呼びかけた。加藤は、しっかり寺内と目が合っているように見える。
「榛葉さんが手を握ったら加藤さんが目を動かしたよ」と言われたが、榛葉は動脈に夢中になっていて気がつかなかった。
「榛葉さん、ちょっと手を出してみて」
寺内は榛葉の手を握手するように握った。
「あっ、やっぱり」
「なんですか?」
「榛葉さんは私より手が温かいんだ! 加藤さん、それで反応したんだね。温かい手っていいよね。私は手がすぐ冷たくなっちゃうからなるべく温めるようにしてるんだけどさ〜」
「そういえば、昔から手がぽかぽかしてるって言われてました」
まるで体温の高い赤ちゃんや子どものようで気恥ずかしかった自分の手の温かさを喜んでくれる人がいると思うと、榛葉は嬉しい気持ちになった。
「よかったね、加藤さん」
寺内が声をかけると、加藤がまた目を動かした。今度は榛葉にもはっきりわかった。
「じゃあこの調子で次々いこう。いいなー、手が温かいの」
そう言いながら病室を回る寺内の後を追い、その日のシャドーイングは終わった。
家に帰ってから、榛葉はメモを見返していた。今までにもたくさんメモを取ってきたけれど、今日感じたことはメモに書けなかった。自分が看護だと思ってやってきたことは、業務だったかもしれない。転職のきっかけになった前の職場の先輩が言っていたことは正しかった気もしてきた。転職自体、正解だったのだろうか。
自分は果たして、ここで求められるようなことができるだろうか、身につけられるだろうか。
イマジネーション・ケアというミッション、それを達成するためのデューティ、それを看護師として行えるだろうか。
榛葉は、まるで迷路を這って進むような気持ちで空を見上げた。少し熱を帯びた潮風が入る部屋の中で、ただメモを握りしめていた。
「あなたがしているのは看護じゃなくて業務でしょ?」そう言われた榛葉(しんば)が、夢と魔法の国の病院で気づいたこととは……。もしもディズニーに病院があったら、そこではどんなケアが生まれるのか? それは、ディズニーでしかできないケアなのか? 新感覚の看護小説、ここに誕生!
定価:1,980円(税込)
刊行:2022年9月
ISBN:978-4-8404-7891-5
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