主人公は、麻酔科医としてICUで勤務していた。しかし、ある件をきっかけに自分が「擬似患者体験プログラム」の参加者として、ICUに入室した患者側になることに……。
擬似患者といいながら、気管挿管にリハビリや清潔ケアなどリアルなICUを患者として体験する主人公と家族、医療者に様々な想いが交差する。
同じ物語を小説版と漫画版の双方で楽しみながらICUを学べるコンテンツとして発信中!
小説は本ページで、漫画はinstagramで公開中。
第⼀章:擬似患者体験プログラム中
「痰とるのでちょっと咳出ますよ、すいません」
白い天井には波のような模様が刻まれていて、見つめているとそれが小さな虫の行列に見えてきた。
病院の天井なんて、もう少し優しい景色にできないのだろうか。木漏れ日の影とか、風に揺れる草の模様とか。そんな他愛もないことをぼんやり考えていると、看護師が目の前に立ち、口元の見慣れた挿管チューブに吸引カテーテルを差し込んできた。
僕は、麻酔科医として何度も患者の痰の吸引をしてきた。人工呼吸器につながれた患者に対して、ためらいなく手を動かしていた。なぜなら目的は痰を取ることだから、苦しいとか辛いとか以前に、痰を取らねば呼吸状態も悪化するのだから、そこに感情の入る余地はなかった。
ICUでの勤務なら、そうした光景は日常の一部で、特別なものではなかった。
でも、今は違う。
『おぉう…うえっ!』
……気管挿管中で声門にはチューブが通っているから声には出せないのだが、その気持ちで強い咳が出る。全ての臓器が口から飛び出しそうなほど、咳と吐き気が襲う。目の奥がじんと熱くなり、喉の奥にかすかな血のような臭い唾液のような変な味を感じた。
こんなにも苦しいものだったのかと、今さらになって、胸の奥にその事実が突き刺さる。
心電図が、一定の間隔で音を刻む。その隙間を縫ように人工呼吸器のアラームが響く。そのたびに、僕の身体は自分のものではないかのように反応する。喉は圧迫され、空気の出入りが強制されているのを感じる。風邪をひいたときのようないがらっぽさが、常に胸のあたりに居座っている。
水が飲めれば、少しは楽になるかもしれない。飴を舐められれば─なんてささやかな思いが浮かんでは消える。今の僕の口には、昔に流行ったタピオカのストローよりも太い気管チューブが突っ込まれているのだから。ふざけた例えだけど、現実は全然笑えない。
医師としては当たり前のことで、当然の知識だった。けれど、自分の喉を貫く一本の管として体験するのは、まるで別世界の出来事だ。
……まあ、とはいえ、これもあと少しのことだろう。
この患者としてのプログラムには終わりがある。それを思えば、多少の苦痛には耐えられる。
任期が終わったら、ビールと唐揚げでささやかな祝杯でもあげたい。
炭酸のきめ細かい泡が喉を駆け抜けるあの感じを思い出すだけで、ビールの喉ごしと挿管チューブが入れられた上での唾液の喉を伝う感覚は違いすぎて笑ってしまいそうになる。
正直、この『擬似患者体験プログラム』に参加したことを、後悔した瞬間がなかったわけじゃないけれど、きっとこの経験は、医師としての僕の財産になるはずだ。
思えば、人間の扱われ方なんて、立場ひとつでいとも簡単に変わってしまう。
ついこのあいだまで、僕は患者に医療を提供していた。でも今は、同じ病院のベッドの上で、同じ僕が患者として扱われている。ただそれだけで、世界の見え方はこうも変わってしまうのだ。
ここは、集中治療室―ICU。重症患者の最後の砦だ。
どうして僕がこの場所で、ベッドに横たわっているのか。
今日は通信システムが開放されている日らしい。だから、この時間を使って、少し話を残しておこうと思う。
ただし、この話は任期終了後に報告すべき内容だから、どうか、聞いたことは心にしまっておいてほしい。他言無用で、お願いする。
僕がここで見ているもの、感じていることは、たぶん、ほんの些細な違いで誰にでも起こりうることだから。
―――
ICUの朝は、日が上る明るさではなく照明のスイッチひとつから始まる。
真っ暗な夜が明けるわけではない。実際には夜間も、暖色の間接照明がどこかしらに灯っているし、モニターや人工呼吸器、透析装置、ECMOの黄緑色のランプは、暗がりの中でひときわ目立っている。完全な暗闇ではないけれど、それでも明け方には看護師がブラインドを開ける。背後にある窓から差し込む光は僕の目には直接見えないが、窓から日が差し込んでいる気もする。
朝になると、看護師がタオルで顔を拭いてくれて、電動シェーバーで髭を剃る。僕の髭はもともと薄いから、剃る意味があるのかどうかもわからない。けれど彼女は迷わず、いつも通りの手順をこなす。歯磨きとなると、歯ブラシを手渡してくれる。
「どうぞ」
夜勤明けのせいか、目の下に少しだけ影が見える。それでも笑顔をつくって差し出されると、こちらも応えたくなる。自分でできることは、自分でやる。それが大事だとわかっているから、できる範囲は磨く。でも口には挿管チューブが堂々と居座っているから、どうしてもうまくいかない。
最後は結局、仕上げをお願いすることになる。
仕上げ磨き―その言葉が、子どもの頃を引きずり出す。母に口をこじ開けられて、歯ブラシを突っ込まれたあの感覚。くすぐったくて、嫌でたまらなかった。
さらにいえば、目の前の看護師の顔は近い。
大人になったはずの僕が、三十代半ばにもなって「お願いします」と口を開けるなんて、正直、気まずい。まさか、また人に歯を磨かれる経験をするとは思わなかった。
そんなことを考えていると、配膳のワゴンがカラカラと音を立てて僕の前を通り過ぎていく。でも、僕には関係ない。経管栄養だから、口から食べることはできない。ワゴンの上に乗った食器たちを、なんとなく目で追ってしまうのは、きっとただの習慣だ。
ナースステーションのほうから、申し送りの声がかすかに聞こえる。内容までは届かないけれど、あの中に、患者としての僕が含まれているのだと思うと、耳が勝手にそちらを拾おうとする。
今日の担当は誰だろう。正直に言えば、ナースコールを押しやすい人とそうでない人がいる。もちろん、ここでは言わない。僕だけの小さな秘密だ。
やがて、日勤の看護師が挨拶に来る。そのあとには、チームカンファレンスが始まる。かつて麻酔科医でもあり集中治療医でもある僕も参加していたベッドサイドの多職種回診だ。
医師、看護師、薬剤師、セラピスト、臨床工学技士、栄養士。たくさんの白衣やスクラブが、僕の周囲に集まる。みんな淡々と、それぞれの専門分野から僕の状態を話している。
誰も悪気なんてないし、視線を向けられているわけでもない…と頭ではわかっているけれど、それでもたくさんの人に囲まれるのは、なかなかにプレッシャーだ。見られている、というより判断や評価されているような感覚。
午前と午後には、それぞれリハビリのセラピストがやってくる。その合間に検査が入り、昼になればまた歯磨きをしたり、希望をすればテレビを見ることもできる。
……といっても、気管挿管中の僕にとっては、どんな予定が並んでいても、一日が咳と痰の処理に支配されている。数時間おきに訪れるその瞬間に怯えている。その都度、息苦しさや痛みに耐えなければならない。痛みが胸を突き上げるたびに、「これが僕の今の生活なんだ」と思い知らされる。
清拭や洗髪をしてもらう日もある。もちろん湯船に浸かれるわけでもないし、熱いシャワーが浴びられるわけでもない。それでも、髪を洗ってもらったあとの頭皮の感覚はすっきりするし、タオルで体を拭いてもらったあと、暖かさの後に肌が少し冷たくなるあの感じは、やっぱり風呂に入りたいという欲望を呼び戻す。ただ、忙しい日には拭かれる動作がどこか雑に感じられることもある。そういう時は、少しの拭き残しと少しの切なさが残る。そんなことも言える立場ではないけれど。
看護師の対応も、みな同じではない。こちらの意図を言葉にせずとも察してくれる人もいれば、まったく見当違いなタイミングで、見当違いな内容の提案をしてくる人もいる。業務や情報収集に必要なことだけ聞いてくる人もいれば、気管挿管で話すことができなくても首振りや頷きで答えられるような雑談をしてくる人もいる。
中には、僕が言葉を探してうまく言えないまま沈黙していても、最後まで付き合ってくれる人もいる。その時間は、きっと仕事の効率から見れば無駄なのかもしれない。でも、僕にとっては救われる一瞬だったりする。
そういえば前に、
『看護って創意工夫だから。…どんなに大変だったとしても創意工夫を凝らせばきっと…』
……と、僕の憧れの看護師さんが言っていたことを思い出す。あのときはただのきれいごとに聞こえた。でもいまは、胸の奥にずしんと響いている。
夕方になると、夜勤の看護師がやってくる。
また、今日の夜は誰だろう─と、小さな期待と不安が胸をかすめる。誰が担当かによって、夜の過ごし方が変わることもある。声のトーン、足音、声かけの頻度、ナースコールへの反応。
それらは、患者としての僕にとって、想像以上に大きな環境因子だ。割としっかり寝むれていたのに、突然の検温で目を覚まされる夜もあれば、偶然か意図的か、起きたタイミングを見計らって姿勢を直してくれる人もいる。
そこに創意工夫という言葉の意味を思う。
僕も医師として、このプログラムを終えたら、いつも慣れている手技すらも1つずつ患者に合わせるということを意識すべきか…と少し過去を振り返り反省した。
やがて、消灯。
とはいえ、やはりICUには絶対的な夜など存在しない。機器の光、アラームの音、勢いよく閉まるゴミ箱の音、人の足音にパソコンを打つ音がさまざまなリズムとなって交錯して、夜はふけていく。今日もまた、1日が終わり、明日も同じような1日が流れていく。
変わらないようで、どこか違う。
麻酔科医であり集中治療医である僕から見える世界と、
患者としての僕にとって見える世界では、
思っている以上に大きな違いがあったんだ。
―――
ん?
……はいはい、分かってるよ。
そろそろシステム開放の終了時間だそうだ。
まったく、あいつはいつだって僕に提案や譲歩と見せかけて指示してくる。うるさいもんだ。
僕にとっての日常が今や非日常になってしまっているんだから、察してほしいのに……。
@icu_survivor
ICUや病棟で働く認定看護師。コロナ禍を経ていかにICUがどのような場所で、PICS(集中治療後症候群)ということも世間には全く知られていないかを痛感!物語を通して、ICUにどのような患者さんやご家族、医療者が関わっているのかを表現したいと意気込み小説側を執筆中。
instagram:(yukika_n_s)
急性期病棟を希望したら、新卒でICUに配属された猫かぶり看護師。日々仕事に励みながらICRN(集中治療認証看護師)を取得。ゆきかさんの作品に感銘を受け、今回漫画で参加。
instagram:(nekokaburikaya)
