ICUを小説と漫画で知ろう、学ぼう!

主人公は、麻酔科医としてICUで勤務していた。しかし、ある件をきっかけに自分が「擬似患者体験プログラム」の参加者として、ICUに入室した患者側になることに……。
擬似患者といいながら、気管挿管にリハビリや清潔ケアなどリアルなICUを患者として体験する主人公と家族、医療者に様々な想いが交差する。
同じ物語を小説版と漫画版の双方で楽しみながらICUを学べるコンテンツとして発信中!
小説は本ページで、漫画はinstagramで公開中。



第四章:不健康な職場環境で戦うしかない世界

※本作中の挿絵では登場人物の感情を表現したいため、敢えてマスクを描いておりません。ご了承ください。

ICUが、ふたつに割れた。

重症な患者が増え、現在のICUだけでは対応できなくなってきていた。
結果、病院の方針として、新病棟を感染者専用ICUにすることが決まった。
僕たちは、ほとんど顔を合わせたこともない事務長と名乗る人間から淡々と説明を受け、ホワイトボードに書かれた表を見ながら、しばらく複雑な気持ちを言葉にできずにいた。

「感染対応チーム」と「非感染チーム」。
太い線で区切られた二つの枠のなかに、名前が並んでいる。
感染対応チームの医師は、唐沢先生と僕、それから安曇と入野先生。看護師は、ICUのなかでもECMOや人工呼吸器に慣れたスタッフを多く配置している。セラピストは、理学療法士が主に並び、作業療法士もわずかに並んでいる。

そして、病院の方針として事務方が作成したらしい、あまりにもシンプルすぎる条件が箇条書きになって配布された。
・高齢者や持病のある家族と同居していないこと
・就学前の子どもがいないこと
・持病等、自身の健康管理に影響を与える制約がないこと
紙の上では、たったそれだけの条件だ。
けれど、それは僕たちの日常を二つに割るには十分すぎる線引きだった。

「……以上です。事前に各部門の管理者より説明があったと思いますが、感染対応チームは、新棟に移ります。非感染チームは、通常のICUでこれまでの対応をお願いします。では、解散で」 事務長の声は、妙に乾いたように聞こえた。事務長だってきっと何かを背負って責任者として話しているのだろうけど、どこにも向けられない怒りにも似たような気持ちを事務長に向けてしまう。 後ろでは他の事務員達がダンボールに入れられた防護具を運んでいる。

僕の横に座っている唐沢先生は、驚くほど淡々とその表を見つめていた。小さくうなずき、僕らの方をちらりと見て、いつもの落ち着いた声で言う。
「まあ、こうなるわよね。誰かが感染側に立たなきゃ、どうにもならないもの」
「唐沢先生、お子さん……小学生ですよね」
「そう、上は来年中学生で下は低学年。しかも、うちは高齢の親もいるよ。でも私が今このICUで動かなくてどうするのよ。もう、都会で感染が広まり始めた頃から、何回も家族会議はしてたから。私はホテルに泊まってる。家族は家にいるよ。朝、子どもから『おはよー』のスタンプが届くの。それ見てから出勤するのが、ここ最近のルーティンかな」

ICUサバイバー第4章01

僕が、こんな田舎に感染は広まらないと根拠もなく思っていた時から、唐沢先生はこの状況を予測していたんだ。
あの最後になるとは思っていなかった飲み会で、最悪のシナリオを想定しておくと話していた梓川さんの言葉も思い出し、いかに自分の考えが甘かったのかを、今さらながらに痛感する。

「高遠先生、感染対応チームなんですね」
隣で名簿を見ていた同期入職の看護師である望月が、つぶやいた。
「俺、ぶっちゃけ1人目の重症患者さんの時、すっげー怖くて。入りたくないなーって思ってたんです。でも、あの時にいつも通りに患者さんに対応する先輩見て、かっこいー!って思ったんです。選ばれたからには頑張らなきゃだし。……だから、茂呂師長から感染チームでいいか聞かれた時に、OKっす!って答えました」
望月は同期入職であるものの、看護師だから僕より年下だ。
それなのに、自分よりもよほど肝が据わっているようにみえた。なんだか、まだ自分だけが現実味を帯びていないような感覚がして、胸の奥がざわついた。

非感染チーム側のスタッフを見ると、安堵と罪悪感をごちゃ混ぜにしたような表情が多いようにみえた。
「子どもがいるからごめん」と、何度も頭を下げたスタッフもいた。
「ごめんって言わないでくださいよ」と言われた側も返しながら、どこかで、こっち側になったことへの妙な納得と、言いようのない重さを含んだ表情がみえた。
誰も悪くない。誰かが正しいわけでも、誰かが間違っているわけでもない。
ただ、太い線一本で、同じ職場のなかに二つの世界ができてしまった。

――

新棟に設けられた感染症専用ICUは、そもそも来年度より開設する予定であった心臓や血管系疾患専用のICUとして運用するはずの場所だった。
扉が開くと白くて新しい匂いを感じる。本来ならお祝いの言葉が飛び交ってもいいはずの新病棟が、今は、まるで戦場の前線基地のように扱われている。
廊下には、透明なビニールカーテンと即席の廃棄物置き場。
ICT(感染制御チーム)が準備したのか、グリーンゾーン・イエローゾーン・ここから先はレッドゾーンと扉に表記されている。
トリアージの時も、緑、黄色、赤……と、命の危機に迫る色の並びは決まっている。
赤が視界に入るだけで、体が自然と危険だ、警戒しろ、と命令されているようだ。
防護具もさまざまな柄やロゴの入ったダンボール箱に詰められて並んでいる。それらが自分たちを守る盾なのだろうが、この盾は画一化されたものではなく、どうやら急場しのぎで集められたもののようだ。
おかしな話だ。ゲームの主人公ならどこの街にも同じ防具が売っているのに。何なら経験値を得れば、防御力も高い防具が手に入るはずなのに。

現実逃避しながらグリーンゾーンにいくと、薬剤リストを見ていた薬剤師の岡田さんが大きなため息をついていた。
「プロポフォールが、もう厳しいですね。モヒはまだありますけど……」
僕の存在に気付き、困ったように話しかけてきた。その一言で、時間の感覚が変わった気がした。僕たちはこれまで、いつも今をどう乗り切るかを考えていた。今夜をどう越えるか、どう安定化させるか。
それなのに今は、数週間後に何を失うことになるのか、それすらも先に数えなければならない。そんなふうに、時間の尺度が変わってしまった。

同じく、物品や機材類も足りなかった。
日頃、迅速で的確な臨床工学技士の麻績さんが、この日はゆっくりと人工呼吸器を機器倉庫へと押していく。いつもは軽々と押されるはずの車輪が、やけに床に引っかかるように見えた。
「呼吸器、空きました……昨日、お一人亡くなっちゃったから」
人工呼吸器がすでに不足しているなかで、一台空くことは、一人分、新たに対応ができるという意味では嬉しいことのはずだ。
けれど、亡くなったから空くという事実が、その嬉しさを真っ向から否定してしまう。麻績さんの背中からにじむ、その矛盾の重さが痛かった。

ECMOや人工呼吸器に乗せれば助かる可能性がある。でも、救命できないかもしれない。
そんな議論を、僕らは何度も重ねることになった。
当たり前にできていたはずの医療が、ひとつずつ立ち止まらなければならないものに変わっていく。そのもどかしさが、じわじわと胸の奥に溜まっていくのを感じていた。

――

看護師休憩室も、ふたつに割れていた。
新棟の一角にある小さな会議室が、感染対応チームの臨時休憩室になっていた。
「新型感染症対応スタッフ専用」と書かれた紙が、テープで雑に貼られている。
元々のICU休憩室は、非感染チーム専用になった。基本的に行き来は禁止。同じ病院の中にあるのに、境界線は思った以上に厚かった。

梓川は、休憩に入り鏡でマスクを外した鼻のあたりに残る赤みを指で押さえた。
ゴムが食い込んでいた耳もじんじんと痛む。よくみるとマスクの跡が、頬にも薄く残っている。
「うわ……頬はd0で鼻はもうd1じゃん」
自分の顔にできた発赤を褥瘡で例えてしまい、自分で自分に放ったおもしろくもない冗談に空笑いがでた。いちいち気にしていたら、きりがない。分かってはいるけれど、自分の顔がいつもより少し疲れて見えるのが、やっぱりちょっと嫌だった。

ICUサバイバー第4章02

休憩室に入ってからも、改めて手を洗い、アルコールを擦り込む。指先の皮膚は既に荒れ気味で、手の甲には細かなひび割れが走っている。
看護って、手を使う仕事なんだ……
そんな当たり前のことが、今さらのように胸に浮かぶ。
レッドゾーンでは常に手袋を着用している。手袋越しの感覚は、いつもの半分くらいに鈍くなっている気がした。ペーパータオルで手を拭きながら、誰もいない休憩室を見回した。

テーブルはあるのに、向かい合わせにならないような配置に椅子が置かれ、透明のシールドが設置されている。
壁にはプリントアウトされた注意書きが何枚も貼られている。
「距離をあけて座りましょう」 「食事中は黙食にご協力ください」
どの紙も、きちんとしたフォントできれいに印刷されているのに、そこに書かれているのは、ひどく不自由な今の当たり前の環境だった。

張り紙を見るたびに、この田舎に昔からある「無言清掃」という文化を頭の片隅に思い出す。
掃除の時間は話さない。黙って、自分の持ち場をきれいにする。それが、よい子のふるまいとして、当たり前のように刷り込まれてきた。
黙ってやるが美徳だったあの時間を、梓川はふと思い出した。あの頃は、それが窮屈だと感じたことはあまりなく、当然の世界だった。今思えば、あの無言は、せいぜい十五分か二十分の話だし、こっそり友達と話もしていた。
だけど今は、一日の大半を、この無言を前提とした空間で過ごしている。心のどこかが少しずつ、静かに摩耗していく。

大きく息を吐きながら、窓の外を見るとドアが軋む音とともに、望月が入ってきた。
「ふー、生き返る……、あ、おつかれさまです」
一瞬マスクを顎下にして深呼吸しながら部屋に入ってきた望月が、こちらに気付きすぐマスクを鼻の上まであげた。
「おつかれさま。どう? 感染側、慣れてきた?」
「んー、慣れたっつーか、慣れざるを得ないっつーか、ですね」
望月は梓川から椅子3つ分をあけて座り、天井を見上げて、椅子の背にもたれる。
「たまに思うんですよね。あっち(非感染側)の方がいいのかなーって」
「あっちはあっちで、大変だよ」
梓川は、そう言いながらも、元のICU休憩室の様子を頭に思い浮かべる。
非感染側は、通常のICUに加えて救急やHCUに他病院からも患者が押し寄せている。
さらにいえば、こちらの感染対応側に中堅スタッフが多めに配置されているため、非感染側は頼れる先輩達が少ない中で勤務しなければならないのだ。そのうえ、感染対応に人手を回す分、残ったスタッフがその穴を全部埋めているのだ。
想像するだけでも、きっと不安で疲労も蓄積しているはずだ。

「でも、たまに思いません? あっちの人たち、普通の白衣やスクラブで仕事してるの見ると、ちょっとうらやましいなーって」
普段、弱音や愚痴の少ない望月が話す言葉には重みがあった。梓川は、望月の自分にだからこそ話してくれたと思える愚痴を受け止めた。
「あっちはあっちで、『あいつら手当上乗せらしい、いいなー』とか言ってるらしいっすよ」
「んー、それはどうかなぁ……」
梓川としては、どちら側であっても頑張っていることに変わりはないのだから、こっちとあっちというように隔たりを作ることは避けたいと考えている。
それでも、人はどこかで差を見つけて数えてしまう。どちらも、自分たちのしんどさを痛感しているからこそ、相手側の方が少しはマシなんじゃないかと、ちらりと羨む気持ちも抱えている。
それが、冗談半分で口にしているうちはまだ良いのかもしれない。
けれど、その小さな羨望が、疲労と一緒に積もっていけば、やがては冗談が冗談ではなくなり、分断の種になることを、うすうす感じていた。

望月は話しながらロッカーからスマホを取り出し画面を見た。その瞬間、表情がわずかに曇る。
「あっち側からLINE来てました。『そっちは防護具で大変だろうけど。こっちはこっちで、残りの患者全部来ててしんどい』って」
画面の文字は軽い冗談のようだが、そこにのっている疲れだけは、冗談じゃなかった。

望月はスマホを伏せて、テーブルにつく傷を指でなぞった。
「外でも、ちょいちょい刺さることあって。この間、夜勤明けで病院近くのコンビニ寄ったら、レジ並んでるときに、前の人がさりげなく一歩、距離とるんですよ」
「……あー」
「たまたまかもですけどね、病院の人って分かるのかなーって」
笑って話そうとしているのに、その笑いが少し空回りする。
「タクシーも、『ちょっと今、近くに車がなくて』って、すぐキャンセルされたって話聞きましたし」
「そんなこと、あるんだ」
「ありますね。あと、俺この間、実家の親から電話きて『お前、ちゃんと気をつけてるんだろうな。近所の人に何か言われないか心配だ』って。俺んち実家が村なんで、望月さんちの息子はここの病院だから、感染対応してるはずだって噂回ったらしくて。田舎の情報網やばいっすよ」
両親からの心配してくれている言葉のはずが、その裏側には、「お前が原因で何か言われたくない」という本音もちらついて見えたのかもしれない。
「そうだね。非感染側のスタッフだけど保育園から、『しばらくご家庭での保育を…』って言われたって。『ICUで勤務されていましたよね。そういうお母さんの子どもと同じクラスはちょっとというご意見をいただいてしまって』って、話が出たみたい」
「……マジっすか。ひどっ」
「まぁ、世間も得体の知れない感染症っていうのは怖いんだよね。だからって、矢印がこっちに向いてくると、さすがに辛いけどね」

ちょうどその時、休憩室のドアがノックもなく開いた。
「あ、ここか。ごめん、あけちゃった」
入ってきたのは、中崎結衣だった。
かつてICUで働き、今でも時々来て指導や提案もしてくれる。現在は看護管理部門にいる急性重症専門看護師だ。応援として、この期間はICUに戻ってきている。

「おつかれさま。ここ、感染チームの休憩室で合ってるよね?」
「合ってます。中崎さん、お久しぶりです」
梓川が笑顔で迎えると、中崎も口元だけ少し緩めた。
「久しぶり……って言いたいところだけど、みんな疲れてるね」
「ですよねー」
望月が苦笑いする。

中崎は、二人の向かい側に少しずれて腰を下ろした。3人が不均等な三角形を描き、それぞれが少しずつ別の方向を向き話す。それはまるで、各々が内心を語る舞台の独白のようにも見える。
「梓川さん、どう? 感染チーム。身体の方は、持ちそう?」
「身体は、まあ。今のところはなんとか」
「心は?」
目線だけ望月の方にむけ中崎は質問した。その問いに2人は、すぐには答えを出せなかった。
「……正直、きついっすけど。でも、きついって言いすぎると、なんか甘えてるみたいで嫌だなって思って。だって俺らが弱音吐いてたら、患者さん悪くなる一方だし。選ばれたからには頑張らないとって。黙って自分に任せられた役割を遂行しようっていうか」
「なるほどね」
梓川も、望月の語りにゆっくりとうなずいた。
「こっちはこっちで、非感染側は普通のマスクでいいなって思う瞬間があったり、あっちはあっちで、感染側が注目されてる! こっちは普段より大変なのにって感じる瞬間があったり。まぁ、よく考えればどっちも分かるけど、なんかすっきりしないというか……」
望月は防護具ですでに変な癖のついている髪型をさらに掻いた。
「そっか。言いづらいことこそ、言葉にしないといけないこともあるかもなぁ」
中崎は、崩れた望月の髪型を見ながら、ふっと笑った。
「前だったらさ、色々な隙間の時間に話せていたじゃない。でも今はそれができないでしょ。言葉にできない気持ちって、勝手に変な方向に育っていって、チームの間に変な溝を作っちゃう。今、ちょうどその芽が出てきてる感じがする」
「……芽、ですか」
梓川の元々大きな瞳は、中崎の言葉でさらに大きく丸くなる。
「そう。まだ雑草レベル。放っておけば、床一面に広がるやつ」
中崎の冗談めかした口調の裏には、冷静な視点があった。望月は眉間に皺を寄せ、難しい顔をしながらペットボトルの蓋を開ける。
「んー、そりゃ隙間時間に話してたりはしてましたけど、それってそんな重要だったんですかね」
「自分の気持ちや考えを相手に伝えられないって、自分達が思っているよりも大きな影響あるんだよ」
「んー、俺にはよく分かんないっす」
眉間の皺が消えないまま、望月のペットボトルは一気に半分にまで減っていた。
「さっき看護部長に呼ばれてね。現場の空気感を聞かれたんだけど、私だけが空気感を伝えるのも違うかなーって思って。こっちとあっち、じゃなくて。感染チームも非感染チームも、みんな同じように戦っているわけだからね。確かに行き来が難しかったり、制約はあるけど。あるからこそ、その制限のなかでも一つのチームとして動ける体制に、ちゃんと組織として考えていかないといけないって私は考えてるの」
「組織として……んー、俺には難しすぎる」
「ははっ、いいのいいの、望月君がそうやって話してくれることだけでも十分よ」

中崎と望月のやり取りに、梓川は胸の奥で、何かが小さく灯るのを感じた。
感染チームと非感染チーム。
同じ方向を向いて、同じ患者の回復を目指しているはずなのに、いつの間にか、互いの疲れや孤独に少しのずるいという思いが、見えない壁になりつつある。
その壁を、少しでも低くするために、誰かが言葉にして、届けなければならない。

「……中崎さん、勤務終わった後、少し時間もらえますか」
梓川は、中崎をまっすぐ見て言った。
「感染チームのこと、非感染チームのこと、一回ちゃんと整理してから話したいです」
「OK!」
中崎は、満足そうにうなずいた。

ICUサバイバー第4章03

休憩時間は、そろそろ終わりに近づいていた。時計の針は容赦なく進み、レッドゾーンへ戻る時間を告げる。
「じゃ、お先に。行ってくるね」
梓川が立ち上がると、椅子が小さく軋んだ。望月もスマホをロッカーに再びしまい、ペットボトルのお茶を飲み干した。
体も心も、不健康になりつつある。
この職場も不健康になりつつあるかもしれない…そう思いながら梓川は休憩室を出た。

――

事務部門の空いている会議室のテーブルの上に、防護具の箱がいくつも積み上がっていた。ICU師長である茂呂は、目の前に広がる多くのダンボールに驚きと感謝を覚えた。
「これが、今日届いた分です」
事務職員が、汗を拭きながら段ボールを開ける。中から出てきたのは、どこか見慣れないパッケージのサージカルマスクや、聞いたこともないメーカー名のフェイスシールドだった。
「ネットで、在庫ありってところを片っ端から当たってます。海外のサイトも含めて、買えるものは全部買ってる状況でして」
言葉だけ聞けば心強いが、箱の見た目には、どこか心もとないところがあった。印刷のかすれ、フォントの妙なずれ、説明書きに紛れ込んだ誤字。茂呂は箱をひとつ手に取り、中身を静かに確認する。
耳ひもを伸ばしてみたり、ゴムを指で引いてみたりしていた。
「……切れやすそうだな」
ぽつりと漏らした一言に、事務職員の肩がびくりと揺れる。
「ちゃんと、医療用って書いてあるんですけどね……」
「あ、いや、すいません。わざわざ探していただいたのに」
スタッフを守るための防護具だからこそ、管理者として安全の担保ができないものを使いたくない。その気持ちからつい出てしまった一言が、必死に防護具を集めている事務員達の心を曲げてしまう発言をしてしまった。配慮が足りなかったと反省する。
申し訳なさそうに事務員は別の段ボールを開けながら
「こちらがガウンや、簡易防護服です。本来の取引先からの入荷が読めないので、今は一般向けの通販サイトや、産業用の物品も混ざっています。みなさんに頑張ってもらっているのに、本当、なんかすいません」
決して悪いわけではないのに、バツが悪そうに申し訳なさそうに事務員が話す。
防護具が足りないなかでスタッフが戦っているのは承知の上だ。そして、フォーカスこそあてられないが、かき集めてくる事務方がいて、戦い方が違うだけで、みんな戦っている。

その時、コンコンと控えめなノックの音がして、ドアが少しだけ開いた。
「失礼します。今、お時間よろしいですか?」
顔を出したのは、看護師の中崎結衣と梓川遥だった。
「お、どうした? 防護具なくなった?」
「あ、いえ…」
「ちょっとご相談よろしいですか」
少し言葉を選んでいる梓川を見て、中崎が声を出した。
「もちろん。……あ、ありがとうございました。2人とも、座って」
茂呂の言葉に事務員は申し訳なさそうな表情のまま部屋を出た。
それぞれ椅子1つか2つ分をあけて座る。それを見計らい、中崎が続けた。
「今、感染チームと非感染チームの間で、ちょっと気になる溝ができかけているように感じていて。茂呂師長にも、共有しておいた方がいいかなと思って」
「溝?」
「患者さんのケアに直接影響が出ているわけじゃないんですが、お互いのしんどさが、じわっと、お互いの不満に変わりつつあるかなと」
梓川と中崎は、それぞれの立場の様子や見解を茂呂師長に伝えた。
どの話も、誰が悪いわけでもない。ただ、こっちはこんなに大変なのにという声が、少しずつ膨らんでいるのが分かる。

「梓川さんは、どう感じているの?」
茂呂に問われ、梓川は一瞬だけ言葉を探した。
「…どちらも、頑張っているのは同じだと思います。感染チームも非感染チームも、患者さんをなんとかしたいっていう気持ちは、ちゃんとある。ただ、今の状況だと、こっちとあっちっていう、見えない境界線が強くなりすぎている気がして」
「境界線、……ね」
茂呂はホワイトボードに書かれていた太い線を頭の片隅に思い出していた。
「はい。それぞれが、自分たちの側の大変さだけを抱え込んでしまって、相手の状況を想像したくても、会って話す時間も場所もない。そのうち、分かってもらえてない、認めてもらえないっていう感覚が、静かにもっともっと膨らんでいくんじゃないかって」
言いながら、梓川自身も、どこまで言葉にしていいのか迷っていた。
それでも、言わなければ何も変わらない気がして、一つひとつ、胸の中に溜めていた空気を吐き出すように話していく。
中崎が、その言葉をそっと補う。
「今はまだ、小さな芽です。でも、これが長期戦になるとしたら、スタッフの関係性を守る対策や、組織としてスタッフのメンタルサポートをする手を早めに打っておいた方がいいと思います。たとえば、情報共有の場を意図的に作るとか、感染チームと非感染チームが、お互いをICUの同じチームだと再確認できるような仕掛けを……」
茂呂は、腕を組んだまま、大柄な体を少しだけ椅子に預け、部屋の隅に積まれた防護具の段ボールと、目の前に立つスタッフの顔を見ていく。
「……現場の声を、持ってきてくれてありがとう」
低く落ち着いた声が、ようやく部屋に落ちた。
「正直なところ、俺も……僕も、僕が管理者としてできることに必死だった。感染対応側も、非感染側も、十分には見に行けていなかった」
茂呂は、組んでいた腕をほどいた。
「まずは、僕が両方のベッドサイドに顔を出す。感染側と非感染側、両方の頑張りを認めていくよ。どっちもちゃんと頑張ってくれているぞ!ってことを、見せないといけない。メンタルフォローも、看護部長にも相談して長期戦として考えるよ」
それは、いかにも茂呂らしい言い方だった。難しい言葉や、きれいなスローガンは使わない。
ただ、自分の足で、実際に現場に立つことを選ぶ。
「あとは、オンラインでも、少人数のミーティングでも、何か意図的に情報共有や意見交換ができるように、考えよう」
中崎は、その言葉を聞きながら、胸の中でひとつ頷いた。
「じゃあ、私はもう少し、芽の様子を見てきます」
中崎が立ち上がる。
「雑草レベルのうちに、なんとかしないとですよね」
「ありがとう。梓川さんも、ありがとう」
茂呂は2人が出ていく後ろ姿を見ながら、さきほど開けた段ボールのフタを閉じた。
スタッフが安全に安心して働ける環境を作ること。職場が健康でなければ、スタッフの心も体も健康でいられるはずがない。そして、物理的にも精神的にも安全な環境でなければならない。
「こっち」と「あっち」の境界線を、自分の歩幅から、少しずつ縮めていこう。

――茂呂は早速、ICUへ向かった。まず向かったのは、新棟の感染対応ICUだった。
防護具を着たり脱いだりするスタッフの動きが、切れ目なく続いている。
カルテの前に座り、モニターとにらめっこをしている白衣の背中がひとつ。

「高遠先生」
「はい? あ、茂呂師長! おつかれさまです」
呼ばれて振り向いた高遠の顔色は、モニターの光に照らされて、いつもより少し白く見えた。

ICUサバイバー第4章04

「顔色、悪いですよ。家、帰ってないんですか? 寝れてます?」
「……んー、仮眠室で2時間くらいは」
「寝たとは言いませんよ」
茂呂は、ため息をひとつ落とした。看護師だけではない。医師も疲弊しているということを改めて痛感した。
「医者の不養生ですよ。先生たちも人間だってこと、忘れないでくださいね」
「ははっ、ありがとうございます」
返事はしたものの、高遠の指はカルテから離れようとしない。

そんな姿を見ながら、グリーンゾーンの感染対応チームのスタッフたちと言葉を交わした。
行き来はできないものの、レッドゾーンが窓越しに見える場所から、スタッフを覗き見る。
全員がさまざまな防護具を着ているが、目元だけは見える。これまで見守ってきている自分の部署のスタッフ達だ。防護具を着ていても誰が誰なのかは動きで分かる。
防護具を感じさせない素早さと的確さでルート確保をするのは……いつも器用で頼られる、あのスタッフ。
タブレットと患者を双方見ながら、必死に家族との距離を埋めるように自分の体勢も気にせず関わるのは……日頃から家族と話すのが好きだと言っていたあのスタッフ。
みんな、この環境でも自分の看護をしっかりとやっているじゃないか。
これを俺がまず1番に認めなくて誰が認めるんだ。
俺が、スタッフ達の頑張りを伝えなくて誰が伝えるんだ……思わず視界がぼやけそうになりながらも、次に非感染側のICUにも足を運んだ。

ちょうど救急搬送のストレッチャーが出入りし、モニターのアラームがせわしなく鳴っている。こちらのスタッフにも同じように声をかけていく。
感染前には緊急の患者を対応するのが怖いと言っていたあのスタッフが、それでも笑顔で患者さんに声をかけている。
反対側では、手術後の患者を受け入れているスタッフがいる。この間まで、あの手術を受け入れるには、もっと中堅のスタッフが必要だったはず。もう若手だけでも安全に対応している。

感染側と非感染側。
どちらも、限界に近い表情をしながら、必死に自分にできる看護をしているように見えた。
ベッドサイドに立ち続けるために、ギリギリのところで踏みとどまっている気すらした。
廊下に出ると、窓の向こうはすっかり夜になっていた。街の明かりが少しずつ減っていくなかで、ICUの照明だけが、変わらず白く光っていた。

――

僕が病院に寝泊まりするようになったのは、いつからだっただろう。少し前の茂呂師長の問いかけに、ふとここ数日を振り返ってみても、簡単には思い出せなかった。 最初のうちは、「今日は当直だから」とか、「明日朝イチで回診だから」とか、自分なりの理由をつけていた気がする。それがいつの間にか、家に帰る理由を探す方が難しくなっていた。 仮眠室の薄いマットレスは、最初の三日は固く感じた。一週間も経つ頃には、その固さすら、かえって安心する感触に変わっていった。

『先生、今日も泊まりですか?』
ナースステーションでカルテを書いていると、誰かにそう聞かれることが増えた。
夜中に呼ばれるくらいなら、ここにいた方がらくっていうか……と笑いながら答えるけれど、本当は帰っても頭が ICUから離れないだけというのが本音だった。
点滴の操作音、人工呼吸器のアラーム、モニターの音。それらはもう、ICU の中だけの音ではなくなっていた。耳の奥に染み込んで、目を閉じてもどこかで鳴り続けている。

「高遠先生……たかとぉーせんせー!」
「あ、はい! あっ、唐沢先生! すいません、ぼーっとしてました」
「いいよ。高遠先生、最近家に帰ってる?」
「……数日に一回くらい、ですかね」
やっぱり思い出せないので、はぐらかして答えた。
「気持ちは分かるよ。一回離れるとさ、次の日にここに戻ってくるのが、余計にしんどく感じるんだよね。だったら、そのままここにいた方がまだ楽って思っちゃう気持ちも分かる」
「そうなんですよね」
「でもダメ。私たちが倒れたら、それこそ誰が代わりにやるのって話になるからね。自分がいなきゃ、やらなきゃって思うのも分かるけど。同時に、自分が壊れたらもっと困るってことも、ちゃんと考えておいてね」
「……はい」
分かっている。唐沢先生の言うとおり、本末転倒なのだ。頭では分かっているのに、足は病院から離れようとしない。

――これまでにも、ICUにいた患者さんが亡くなるところは見てきた。
死亡確認後に、看護師さん達と一緒に点滴を抜いたり、必要があれば縫合したりもしていた。
それでも、僕ら医師が必要な時間は短くて。
いつも看護師さん達が、これまで頑張ってきた患者さんを、綺麗に、本来のその人らしい姿にして、家族と共に帰る姿を見てきた。
それが今は違う。感染してから家族と直接会うこともできなかったのに、亡くなってからも白い長い袋に入れられて、触れ合えることができないまま、病院を出るんだ。

そんなこと、絶対嫌だ。仕方がないのかもしれないけど、1人でもそんな姿にしたくない。
だから、採血の結果が、一つでもいつもと違ったら。患者の呼吸が、ほんの少しでも変だったら。その違和感を見逃して、最期までも触れ合えないなんてことにしたくない。諦めたくない。

そう思うたびに、ここにいた方が安心だと自分に言い聞かせてしまう。
シャワーを浴びて、仮眠室のベッドに横になっても、頭の中では、ICUのことを考えている。
夜になると病院の窓から見える街の灯りは、少しずつ減っていった。
まぁ、元から田舎だから、そこまで明るい夜ではなかったけど、自粛要請の影響で、夜の街は、さらに早く暗くなるようになった。
それでも、 ICU の明かりだけは、変わらず灯り続けている。
ここでは、昼も夜も、休業も自粛もない。ただ、ひたすらに続けることだけが求められている。
それでも、ここで手を止めることの方が、今は何倍も怖かった。
もうちょっとだけ……
そう言い聞かせながら、僕はもう一人分のカルテを開いた。



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@icu_survivor




小説:ゆきか
ICUや病棟で働く認定看護師。コロナ禍を経ていかにICUがどのような場所で、PICS(集中治療後症候群)ということも世間には全く知られていないかを痛感!物語を通して、ICUにどのような患者さんやご家族、医療者が関わっているのかを表現したいと意気込み小説側を執筆中。
instagram:(yukika_n_s




漫画:花宮カヤ
急性期病棟を希望したら、新卒でICUに配属された猫かぶり看護師。日々仕事に励みながらICRN(集中治療認証看護師)を取得。ゆきかさんの作品に感銘を受け、今回漫画で参加。
instagram:(nekokaburikaya