ICUを小説と漫画で知ろう、学ぼう!

主人公は、麻酔科医としてICUで勤務していた。しかし、ある件をきっかけに自分が「擬似患者体験プログラム」の参加者として、ICUに入室した患者側になることに……。
擬似患者といいながら、気管挿管にリハビリや清潔ケアなどリアルなICUを患者として体験する主人公と家族、医療者に様々な想いが交差する。
同じ物語を小説版と漫画版の双方で楽しみながらICUを学べるコンテンツとして発信中!
小説は本ページで、漫画はinstagramで公開中。



第五章:インシデントと休息

高遠は、ぼんやりとカルテを見つめていた。
いつも当たり前にできていた「眠る」という行為が、ここ数日はうまくできないでいる。
横になる時間は確かにあった。椅子に沈んで目を閉じる瞬間もあった。それが睡眠だったのかどうか自信がない。
時間の感覚が、どこかで崩れてしまっている。何曜日で何日だったかを思い出すことすら面倒で、すぐカルテのカレンダーを見たり、患者用モニターに映る日付を見ていた。 そして、常に一定の間隔で音が鳴る。
……ピッ,ピッ,ピッ
誰かの心臓が規則正しく世界を刻む音に、人工呼吸器のアラームが割り込んでくる。電話のコールは、次の入院を告げる合図だった。キーボードを叩く音、ゴミ箱の蓋が勢いよく閉まる音、靴底が床を擦る音。あのすべての音が鳴っていない時ですら、鳴っている気がする。
音というのは、厄介だ。
目を閉じても、耳は閉じられない。視界は暗くできても、音はどこまでも入ってくる。静かな場所にいこうものなら、むしろ音が増え騒音が消えるぶん、頭の中のICUがはっきりしてしまう。そういう日が続いていた。

ICUサバイバー第5章01

自分の手を見た。握ったり開いたりすると、乾いた関節の皮膚がひび割れて、気にも留めないくらいの小さな痛みが走る。それでも手が当たり前のように自分の指示で動くことに、安心する。
手は動く、大丈夫だ。
麻酔科医として、ラインを取る、挿管する、必要なことを必要な順番でやる。迷わないために、手は勝手に動くようにしてきた。いつのまにか、それが自分の誇りになっていた。
しかし、最近は、ほんの小さな瞬間に、ずれが出る。
何かを取りに行くために立ち上がったのに、何を取るつもりだったかを忘れる。薬剤の投与量を頭の中で復唱していたのに、誰かに声をかけられると一瞬だけ数字が飛ぶ。
そういう一拍が怖い。怖いから声に出して確認して、ルーチンを厳密に守る。いつもより丁寧にやって誤魔化す。誤魔化している自覚があるから、余計に疲れる。

――

今日は、挿管患者のCV(中心静脈カテーテル)挿入の予定だ。
薬剤を確実に投与するためにはルートが必要だ。手術室でもICUでも何十回とやっている手技だ。
ただ、今朝は妙に胸の奥が落ち着かなかった。理由はわからない。理由のわからない不安ほど嫌なものはない。だから僕は、それを無視することにした。
手は……動く。大丈夫だ。
アルコールをすり込みながら、レッドゾーンのドアの向こうを見た。モニターの音が聞こえた気がした。僕は一度だけ深く息を吸って、できるだけ何でもない顔でベッドサイドへ向かった。

挿管されている患者さんは、昨日転院してきた方だった。
血圧は低めで腕は浮腫んでいる。皮膚が変に照って、ぱんっと張っている。顔も浮腫んでいた。
首の胸鎖乳突筋は、浮腫んでいても分かるくらい張ってしまっている。過度な呼吸努力を続けた上での気管挿管だった。
ベッドサイドでは、受け持ちの看護師さんが淡々と準備を進めている。手際がいい。そういう当たり前に、いまは少し救われる。

エコーで血管を見る。画面の中の静脈はややつぶれている。虚脱していて、呼吸のたびに形が変わる。そういえばAラインの波形も呼吸に応じて上下している。いつもならエコーを使う前に予想できていたはずなのに、今日は見過ごしていた。
少しだけベッドの足側を上げてもらう。角度がほんの少し変わると、静脈がわずかに戻ってくるのを感じる。さっきより見える、いける。

ここから先は、手が勝手に動く領域だ。僕が考える前に、僕の指が順番を知っている。
画面を見ながら角度を調整して、針先が血管に近づく。
静脈の壁に触れる瞬間の、あの独特の感触がくるはずだった。
それなのに、少し違和感があった。
壁を越えるときの、わずかな感触。僕自身の手が確認するための間。それが、なかった気がした。
でも、大丈夫。手はいつも通り動いている。
いつも通り、シリンジを引く。返ってきた血液が、やたらと鮮やかだった。
一瞬、目がその色に吸い寄せられる。赤い、明るい、妙に明るい赤。
……静脈の暗さじゃない、動脈だ。

ICUサバイバー第5章02

答えが出ると同時に、手が動く。針を抜き穿刺部位を強く圧迫した。
血腫を作らないように、ちゃんと圧迫を続ける。指の隙間から、じわりと皮膚が持ち上がり、浮腫んだ体でも分かるように腫れてきている。
落ち着け、考えろ。圧迫はしている。腫脹したとしても気管は挿管できているから、気道は大丈夫。呼吸も保てている。大丈夫、大丈夫。
一定のリズムを刻んでいた音が、少し騒がしくなる。これは僕の頭の中のICUじゃない。現実の目の前のICUの音だ。
血圧は、まだ大丈夫。
次は……

「唐沢先生を呼んできますね」

担当の看護師さんの声で、はっとした。
僕は、今ひとりでなんとかしようとしていた。自分が、ここでなんとかしなきゃまずいと思い込んでいた。
「……あ、おねがいします」
声がやっと出た。圧迫している手が、少し痺れてくる。
数十秒のはずなのに、数分みたいに感じる。モニターのピッ,ピッ,ピッが、さっきよりうるさい。

僕が、もう一度だけ深く息を吸った頃に、唐沢先生が来た。
状況を伝え、一緒にエコーを見てもらい、評価をした。幸い大事には至らず、再びモニターのリズムは戻りだした。

――ベッドサイドを離れても、指先の感覚だけが残っていた。圧迫していた場所の柔らかい皮膚の盛り上がり。そこに押し返されていた自分の指の感覚が妙に生々しい。
大事には至らなかった。
その事実を頭の中で何度も反芻する。言葉にすると軽くなる。軽くなりすぎて、逆に怖い。たまたま、今回はこうだっただけじゃないのか、と。
グリーンゾーンからレッドゾーンをみると、ベッドサイドは何事もなかったみたいに、いつもの様相に戻っていた。モニターの波形も、さっきまでの騒がしさが嘘みたいに整っている。
周囲はもう先ほどのことなど気にしていないかのように見えた。だからこそ僕だけが取り残されている気がして、僕の中だけが、まだ騒がしい。
心臓のリズムが早くて、喉が乾く。呼吸が浅くて、マスクの中が熱くて、手で少しだけマスクを持ち上げる。
手は……動く。大丈夫……。
うっすら反射するガラス越しに映る僕の手は、小さく震えていた。
誰かに見られても気づかないように冷静を装っていても、自分の意思は無視して手は小刻みに揺れている。止めようとしても止まらない。
……そうだ、記録を書かなければならない。
僕はグリーンゾーンの端の席に座り、カルテを開いた。起こったことを、起こった順番に、淡々と記す。感情を混ぜない。混ぜると読めない文章になる。
うまく打てなくて手が、震える。僕は一度、手を膝の上に置いた。握って、開いて、また握る。乾燥した関節がひりっと痛む。気にしていなかったその痛みが、現実を教えてくれる。

ICUサバイバー第5章03

画面の上で、自分の打った文字が揺れて見えた。実際に揺れているのは、モニターじゃなく僕の目なのかもしれない。
背後で、誰かの足音が止まった気がした。振り返ると、唐沢先生が立っていた。防護具を外したばかりで、鼻梁に跡が残っている。
「記録、書いてくれてるの?」
「はい。動脈穿刺して……しまって。抜去して圧迫したことを」
穏やかな笑みで、唐沢先生は画面ではなく、僕の手を見ながら問いかける。
「血腫は、大丈夫そうよ。バイタルも」
「はい、頻脈はあったけど。……今は落ち着いて、血圧も問題ないですね」

唐沢先生は、レッドゾーンのほうを一度だけ見てから言った。
「そうだよね。起こってしまった事実はあるけど、その後の対応は迅速で適切だった。大事に至らなかったのは、運じゃなくて、ちゃんと手順を踏んだから」
運じゃない、その言葉に胸の奥がきゅっと縮む。
「誰にでも起きうることだからね」
「すみません」
「ううん、私こそ。他の先生たちのことも含めて管理する立場でもあるから、もっと無理にでも休ませればよかった。配慮にかけてた。ごめんね」
「いや、先生が悪いなんて……」
「そう思うなら、しっかり休も。応援ドクターも来てくれるようになったし、初期より良い流れになってきているから。休むのも仕事のうち!」

僕にとって休むというのは、家に帰ることでもベッドに横になることでもない。現場からいなくなることだった。いなくなる、という響きが妙に重い。
僕がいない前提で、ICUは回ってしまう。回ってしまうのなら、僕は何なんだ。そんな幼い考えが浮かんで、すぐに恥ずかしくなった。
休むことが仕事だなんて理屈を、僕は医師として患者さんにしか使ったことがない。けれど、転ばないまま転びそうになりながら走り続けることが、いちばん危ないことも分かっている。分かっているから、余計に苦しい。
唐沢先生に困ったような戸惑うような、なんともいえない顔をさせていることに気づき、僕は、やっと休むということに頷いた。
帰り支度をするにしても、いつも通りにこなせるのが嫌だった。病院を出る頃には、もう外が暗くなっていた。

――

自宅の玄関のドアを閉めた瞬間、ICUの広さと比べて世界が小さくなった気がした。ICUの外側に出たはずなのに、まだ体の奥にあの広さが残っている。
外出もままならないから、コンビニに寄ってすぐ帰ってきた。
それでも、久々の休息だから、酒と、つまみと、適当な惣菜を買ってきた。袋ごとテーブルに置き、すぐシャワーを浴びる。淡々と作業のように、リラックスできるわけでもなく、感染しないようにと汚れを落とす。それだけだ。
濡れた髪を拭きながら、缶のプルタブに指をかける。この音を、ずっと待っていたはずだった。ぷしゅ、という音はした。炭酸の匂いも立った。なのに、心は動かない。二、三口で半分ほど飲んだ。喉を通るはずの刺激が鈍くて、もう一口飲み、すぐに缶は軽くなる。それでも美味しくない。こんなに美味しくなかったか。
そう思った瞬間に、また罪悪感が湧き、胃のあたりがむかむかした。

今日の記憶が蘇っては消える。鮮やかな血液。圧迫していた指の感触。モニターの音に唐沢先生の声。自分の震える手。映像みたいに繰り返されるのに、どこか夢のようでもある。
息が荒い気がする。気がする……じゃない、実際に浅い。
家に1人でいるからこそ、気兼ねなくマスクを外しているのに、胸が詰まる。呼吸がうまく入らない。深呼吸をしようとすると、胃が持ち上がって吐き気が先に来る。
これはメンタルだ。そう思いたいような思いたくないような複雑な気分だ。メンタルなら、気合いと時間で、どうにかなる気がする。久々の連休で次にICUに行く時には戻れる気がする。
でも、だるい。疲れているんだろう、立ち上がるのが億劫だ。腕の皮膚も妙に熱いのに、背中はぞくっとする。
僕はそれを気のせいにしようとして、缶の冷たさを手のひらに押しつけた。そのまま冷たさのなくなった缶を置いて、ソファにもたれた。目を閉じると、ICUの音が戻ってくる気がした。静けさのせいで、頭の中のICUがはっきりする。
その音を止めるように、現実の音が混じった。
ピンポーン……チャイムが鳴り一瞬、体が跳ねた。
急変した時のレッドアラームの音を聞いた時みたいに反射で動く。ここは病院じゃない、家だ。こんな時間に、誰だ。訪問者なんているはずもないから、居留守を使った。体がだるいし、頭も回らない。今は誰にも会いたくない。説明する気力もない。

ピンポーン……ピンポーン……再び、チャイムが鳴った。
居留守であることが分かっているような押し方に聞こえた。僕は息を潜め、呼吸を整えようとしたが、整わなかった。胃がまたむかむかして、喉の奥が熱い。立ち上がるだけで、視界が少し揺れた気がした。

ピンポーン……チャイムが、また鳴った。
逃げられない、という感覚が妙に現実的だった。仕方ない……出るか。
ソファからゆっくりと重い体を持ち上げ、インターホンの画面を見た。
画面に入ってきたのは、黒いスーツと黒いネクタイ。
細身で色白の男が、こちらに向けて微笑んでいた。

ICUサバイバー第5章04



instagramで漫画版公開中!
@icu_survivor




小説:ゆきか
ICUや病棟で働く認定看護師。コロナ禍を経ていかにICUがどのような場所で、PICS(集中治療後症候群)ということも世間には全く知られていないかを痛感!物語を通して、ICUにどのような患者さんやご家族、医療者が関わっているのかを表現したいと意気込み小説側を執筆中。
instagram:(yukika_n_s




漫画:花宮カヤ
急性期病棟を希望したら、新卒でICUに配属された猫かぶり看護師。日々仕事に励みながらICRN(集中治療認証看護師)を取得。ゆきかさんの作品に感銘を受け、今回漫画で参加。
instagram:(nekokaburikaya