農林大学校に退学届の提出や寮の荷物整理に向かう電車の中でこれまでの学校生活を思い起こしています。友だちからのリクエストに応えて学校内で始めたダンス練習は、参加者との温度差にフラストレーションを感じ、継続できなくなり自然消滅しました。小学2年生でダンスを始め、テレビで観ているような世界に行きたいという思いも芽生え夢中になっていましたが、看護科のある高校に進学することを第一優先としていたため、オーディションなども受けませんでした。それは、はるか高い目標のためにはすべてをかけなければ挑戦できないという思いからだったのですが、それはその後、劣等感やダンスに対する消化不良として残り続けたのでした……
表現できないストレスが身体症状として現れた
いまでこそ自分の考えや感情を言語化することができるようになりましたが、小学生のころは特に苦手でした。勉強や読書をせず、外で遊ぶかニンテンドーDSをするかしかなかったので、言葉を学ぶ機会がありませんでした。
また自分の「当たり前」が定型発達の同級生とは違うため、その差につねに動揺していましたし、そのせいもあってどう表現していいかわかりませんでした。
加えて両親は私の感覚がわからないため、家でもわかってもらえず「なんでこんなにも理解してもらえないのだろう」と不安でした。子どもの見えている世界はとても狭く、親にわかってもらえないことは絶望的だったのです。身近な親でさえわかってもらえないなら、誰にもわかってもらえないとさえ当時は思っていました。
そのため不安などのストレスは身体症状として出ました。身体的には問題がないのに咳が止まらない、空気を飲み込む癖が出現し胃に空気が溜まるため気持ち悪くなる、ストレス性の難聴などがありました。かかりつけ医から紹介されて大学病院の小児科、心療内科に小学3年生のときに通っていました。
小学生なので大学病院を受診することについて深くは考えておらず、学校が休めてラッキーという気持ちで、受診の日はわくわくしてました。
「普通は……」がわからない
非定型発達の私は定型発達の人と脳の働き方が違います。同じ場面においても感じ方が異なるのです。だから定型発達の人が前提の社会で生きていくためには、定型発達の人がどの場面でどんな感情抱くのか、それにはどんな言葉が当てはまるのかを学ばなければいけませんでした。
小学6年生ぐらいから本を読む面白さを知りました。私は小説をたくさん読むことで、人がどんな場面でどんな感情を抱き、それをどう言葉で表現されるのかを学び、ある程度は人とコミュニケーションが取れるようになりました。
それでもまだまだ中学生のころはどう表現していいかわからないことも多く、自分の感情をうまく表すことができず、爆発しそうな気持ちをぶつけられたのがダンスでした。ダンスでは振りやリズムを通して、イライラや悲しみ、苦しさをぶつけていました。踊りは日常では出さないほうがいいとされているどうしようもない感情も許容してくる気がしていました。
語彙が足りなくて、うまく言葉を紡げなくて、人と話すのが苦手だった内気な私の唯一のコミュニケーションツールだったのです。
自己表現のツールとして踊りがあったことは私にとって幸運でした。言葉でうまく表現できなくても、踊れば、誰かがわかってくれるかもしれない。共有できるかもしれない。そうした感覚が、不安定だった幼ない私を支えてくれました。
心療内科に通ったことで
心療内科には何度か通いましたが、何をしたか、何を話したか、どんなことを思ったかも憶えていません。記憶に残っているのは心理テストをしたことだけです。ただ単に、平日に学校を休めることがうれしかっただけです。
心療内科に通って直接的に何か変わったことはありませんでしたが、母は子育てを1人ではなく小児科の医師や臨床心理士にも見ていてもらえる安心感があったようです。
育児本を読んでも地域の保健師に聞いても、返ってくるのはわかりきっている当たり前の一般的なこと。その一般的な子に当てはまっていなかった私の子育ては本当にたいへんだったと思います。頼る相手もいないなかで、よく虐待しなかったなと思います。生きていることが不思議なくらいです。どんなことがあっても、母は絶対に私に手をあげませんでした。
嫌なことからは逃げていい
私があれ以上悪化しなかったのは、医師が母に「学校に無理に行かせなくていい」と言ってくれたからです。
いまほどは不登校の子どもへの理解がない時代で、母としては学校に行かせるべきなのかすごく悩んだそうです。ほとんどの子どもが毎日学校に行っているなか、昼からテレビを観て、飽きたらゲームをしてる私の未来に不安を覚えないはずがありません。
医師の助言のおかげで、私は休みたいときに休みたいと言いやすくなり、気持ちが少し楽になりました。月曜日は行きたくない気持ちが強いのでほぼ毎週行きませんでしたし、日直の日も休みました。泊まりの校外学習も行きませんでした。
「嫌なことから逃げているとろくな大人にならないぞ!」とも言われましたが、嫌なことからは逃げていいと思います。
自分の人生を、自分で選択してきた。だから誰のせいにもできない。選択の結果は受け止めたくないことでも受け止めなくてはいけないし、責任は自分が取らなくてはいけない。ただ我慢してその場をしのぐよりも、自分の人生の舵を自分でとっていると感じられることのほうが大切だと思うのです。
小学生のころに自分で選択してきた感覚があったからこそ、どんなにきつくてもその後の中学校、高校看護学生時代を乗り越えられました。
5年一貫の看護高校卒業後、林業学校に進学。現在は、病院と皮膚科クリニック のダブルワークをしながら、発達障害を持っていても負担なく働ける方法を模索中。ひなたぼっこが大好きで、天気がいい日はベランダでご飯を食べる。ちょっとした自慢はメリル・ストリープと握手したことがあること。最果タヒ著『君の言い訳は、最高の芸術』が好きな人はソウルメイトだと思ってる。ゴッホとモネが好き。夜中に食べる納豆ごはんは最強。