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超高齢社会といわれています。
がんや血管障害が克服されつつあり、認知症の経過が長くなることが増えています。

認知症という病気は、経過年数が長いほど進行します。進行していき、症状が変遷し、最後にはターミナルケアになります。

この原稿を書いているのは桜が満開の季節です。10年以上も当院に通院した人が、この季節に他界されました。

認知症が進行して重度になり、歩行ができなくなると、ほとんどの方が訪問診療や施設に所属する医師に転院していきます。療養型病棟に入院して最期を迎える方も多いです。

このため認知症の専門医として、診療所の外来で最後まで関わることができる人は多くありません。どのような最期を迎えられたのか、最後までその人らしく生きられたのかなど、わからないままの方が多いのです。


看護師のための認知症患者さんとのコミュニケーション&“困った行動”にしない対応法

CASE 040
88才女性

ある時、認知症で長く通院している人の家族が相談に来ました。その人は、重度の認知症の状態で、すでに施設に入所しています。施設には担当医がいて、主な診療はその担当医が行っています。

嚥下障害が出現し誤嚥性肺炎になりました。担当医は胃ろう造設を勧めてきました。延命処置をどうすべきか、意見を求められました。

どう答えればいいのでしょう。

これまでの経過

X-14年ごろから記銘力障害が出現しました。同じことを何度も話したり、鍵を紛失するようになりました。

おかしいと思った息子夫婦や夫の指摘で近くの病院に行きました。簡単に診察して、頭部CT検査で「異常なし」と言われ、その後の通院もありませんでした。

X-13年、夫が他界しました。本人はパニック状態になりました。認知機能が低下して、社会的手続の能力が失われていたのです。

夫が入院していた病院の支払い、死亡届、年金の手続き、相続などなど、やることは山積です。とてもできませんでした。

息子夫婦が援助して、何とか手続きなどを行いました。

発病2年で初めて認知症と診断される

X-12年、近所の精神科クリニックを受診し、長谷川式20点でした。正式名称は長谷川式簡易認知機能評価スケールです。MMSEに似た30点満点の簡易な機能検査です。

スケールを開発した長谷川和夫医師は日本の精神科医です。認知症診療を専門としており、晩年は嗜銀顆粒性認知症に罹患し、2021年11月に逝去されました。記銘力障害の有無を調べるための遅延再生項目で「桜、猫、電車」を考案し、この3つの単語が有名になり過ぎて患者が練習してくるまでになりました。

長谷川式20点というと、初期から中期に差しかかる程度の認知症の状態です。つまり記銘力障害だけではなく、時間的見当識障害が始まっているということになります。

アルツハイマー型認知症の治療を開始

画像検査のみを行うクリニックで頭部MRI検査を行い、初期のアルツハイマー型認知症と診断されました。詳しい病名や症状の説明はありませんでしたが、アリセプト®︎が処方されました。

記銘力障害、時間的見当識障害があり、社会的手続能力は障害されていましたが、それ以外の症状はなく、日常生活動作に支障はありませんでした。家事もできています。金銭管理や買物も1人でやっていました。

見当識障害の悪化

X-11年、日付・時間があやふやになり、人と約束ができなくなりました。時間的見当識障害の悪化です。

本人は当時、物忘れの自覚があり、頻繁にメモを取っていましたが、メモ自体を紛失してしまうようになりました。このため徐々に精神的に不安定になりました。

「今日一日、自分が何をしていたかわからない!」とパニックになって、泣きながら長男に電話をかけるようになりました。パニックや興奮に対し、前年から通院していた精神科クリニックから抑肝散を処方されましたが効果はあまりありませんでした。

抑肝散は不安神経症や不眠症に使用する漢方薬です。認知症の周辺精神症状に効果があり、副作用が少ないので抗精神病薬よりもよく使用されます。

それでも副作用がまったくないわけではなく、高血圧症や低カリウム血症など、偽アルドステロン症という症状を呈することがあります。

管理能力の低下

当時は薬の服用を誰も確認していなかったので、内服できなくなっていた可能性があります。抑肝散をきちんと内服していないため効果が見られなかったのかもしれません。

本人がパニックになった際に、家族がどう接してよいのかわからず戸惑っていました。通院中の精神科クリニックでは、関わり方についての指導はなかったとのことでした。このため当院を受診しました。

接し方

初診時、本人は機嫌良く、明るく振舞っており、よくしゃべっていました。「自分で困ることはあまりありません。薬が好きじゃないので飲みたくないです。プールは楽しく行っています。泳ぐのが好きです」と語っていました。水泳が好きな人でした。

本人に治療のモチベーションがなく、薬を嫌がっていましたが、X-12年から処方されていたアリセプト®︎は、内服していました。

認知症の人への接し方について、「本人が嫌がることを言わない」とか、「受容的に接して安心させる」など、息子夫婦に対して一般的な介護指導を行いました。

指導されたことを実行してみて、うまくいかない場合にはまた相談に来るように話しました。

およそ半年後、本人は有料老人ホームに入りました。

老人ホーム

息子夫婦が手配して「新しいマンション」と言って入所させました。独居が難しいと判断したからです。

独居の限界はいろいろと基準があります。火の不始末、食生活の破綻、排泄の問題、近隣苦情などです。MMSE20点を切るとおおむね独居が限界になる段階といわれています。

抗精神病薬

入所してすぐ帰宅願望が強くなり興奮状態となったため、施設の往診医がリスパダール®︎1mgを処方しました。リスパダール®︎は非定形精神病薬という種類の薬で、統合失調症の治療薬です。幻覚や妄想を抑えたり、興奮を鎮める作用があります。

高齢者は薬剤性パーキンソン症候群などの副作用が強く現れるので推奨されていません。しかし、実際の介護現場では、認知症の周辺精神症状が強く、介護困難を来している場合に慎重に少量投与で使用されています。使用期間はなるべく短く、使用する量もなるべく少なくするのが基本です。

服用後、速やかに精神症状が改善し、興奮して騒ぐことはなくなりました。幸い副作用はなく、日常生活動作は自立しており、自分の部屋で自炊して生活していました。

病感による不安が強まる

X-10年、入所してしばらくすると「頭がおかしくなったみたい」「記憶喪失みたい」「やる気がしない」「寂しい」「誰かが来てくれるととてもうれしい」「助けて」などと施設スタッフに訴えることが増えました。

自室内では部屋着のままで過ごし、レストランやデイサービスのアクティビティに誘っても参加しません。外出を促しても出かけようとしません。

閉じこもっているあいだに1カ月ほどで認知機能が徐々に低下しました。それまでできていた電気のスイッチや入浴の際のお湯張りの仕方も忘れました。身なりも徐々にだらしなくなりました。

毎日書いていた日記を見ても自分が書いたことが思い出せません。食事したことを覚えておらず「食べてない」と言ったり、反対にまだ食べていないのに「食べた」ということもあります。

体重低下し、再受診

アパシーと食欲の低下が目立ち、体重は3kgほど落ちました。

入所してからは入所施設の医師が診療していましたが、意欲の低下や物忘れの進行が目立ったため、およそ1年ぶりに当院を再診しました。

再診時、X-12年から2年間服用していたアリセプト®︎とリスパダール®︎1mgを服用していました。

薬剤調整

まずはリスパダール®︎1mgを0.5mgに減らしてもらいました。すると元気が出て認知機能も少し回復しました。リスパダール®︎による過鎮静だったのです。

しかしながら、リスパダール®︎減量後に入浴を嫌がるようになり、施設のスタッフが困るようになりました。入浴を嫌がるのはアルツハイマー型認知症のFASTスケール6b、やや重度の状態です。

過食

食欲が亢進し過食になりました。リスパダール®︎を中止したことによる症状と思われました。リスパダール®︎は過鎮静の副作用が強いので、再増量はせず、同じく非定型抗精神病薬のエビリファイ®︎に変更しました。

エビリファイ®︎のほうが過鎮静は少ないといわれています。使用したのは1.5mgです。リスパダール®︎に比べると精神症状を抑制する効果が弱いため、薬剤の変更によって精神症状が再燃してしまいました。

精神症状を抑えるため3mgに増量しました。すると、いったん過食になっていたのに一転して食欲が減退し体重がさらに減りました。エビリファイ®︎は、食欲が減退して痩せてしまう人が多い薬剤です。統合失調症の人でも、エビリファイ®︎の副作用でガリガリに痩せている人をたまに見ることがあります。

リスパダール®︎に戻すわけにもいかず、今度はジプレキサ®︎を使用してみました。1日1.25mgです。たいへん少ない量です。これで落ち着きました。

言葉の意味がわからなくなる

そのうち認知症自体が徐々に進行してきました。耳で聞いた単語の意味がわからなくなり、口頭指示が入りにくくなりました。介護の手間がかかるようになり、要介護1から3に上がりました。

X-9年、食欲や精神状態は安定し穏やかに過ごしていました。診察室では、私に向かって「私の母は痴呆症だったので自分もそうならないか心配です」と語りました。不安なようでした。病感がありました。

息子夫婦は頻繁に面会に通っていました。しかし、帰ってしまうと面会したことを忘れてしまいます。面会ノートには息子の名前が書いてあるため、「息子に会った記憶がない」と怪訝そうな顔をしているということでした。

病気を否定する気持ちが強まる

少し経つと「私は父に似たので痴呆にはならないと思います」というようになりました。また、息子に会ったことをまったく覚えられないので、「息子に見捨てられました」と言うようにもなりました。

抑うつ的になり、リハビリテーションの際に施設のスタッフに対し「死にたい」と漏らしたり、「もう放っておいて。十分幸せな人生だったのだから、寝たきりになってもかまわない。もうがんばらせないで」と泣き出すことが増えました。

失禁の出現

このころから両便失禁が出現しました。

診察室で「私は母に似てないと思っていたけど、どんどん似てきました」と言いました。自身の物忘れに対して不安や悲しみを頻繁に訴えるようになりました。一時期安定していた体重が2kgほど減りました。

クラシック音楽が好きで、ラジオでよく聴いていました。ところが、このころになると「耳障りでうるさい」と言ってクラシックを聴かなくなりました。音楽が楽しめなくなったのです。うつの症状です。

うつ状態へのアプローチ

うつ状態の改善と食欲増進、体重増加を目的にジプレキサ®︎を2.5mgに増量しました。ジプレキサ®︎は非定形抗精神病薬のなかでも最も食欲が亢進する薬です。食欲亢進により、過食から肥満になることがあります。糖尿病患者では血糖上昇の副作用が問題となるので投与は禁忌で、注意が必要です。

ジプレキサ®︎増量により食欲が改善し、体重が徐々に増えました。「死にたい」という発言も減りました。

X-8年、施設に入って3年が経ちました。施設に入所していることを忘れるようになりました。

帰宅願望の再燃

「夫が待っているので帰らなくては」「息子は、結婚したのかしら?」など、かなり過去に遡っている時間が増えました。このためアリセプト®︎を10mgに増量しました。症状に大きな変化はありませんでしたが緩徐に進行しているようでした。

X-7年、頭部MRI検査で両側海馬の萎縮がかなり進行していました。

X-6年、夜間に帰宅願望が出現するようになりました。施設に入ったこと自体を忘れているので自宅に帰ろうとするのです。

要介護度が上がる

要介護4に上がりました。

尿路感染症を繰り返すようになりました。両便失禁の影響です。

身体機能も低下して、すり足になり、歩行器を使用するようになりました。アルツハイマー型認知症でも大脳萎縮が著しく進行するとパーキンソン症候群を呈するようになります。屋外を長距離移動する際には車椅子を利用するようになりました。

原因不明の拒薬

このころから拒薬するようになりました。原因は不明でした。対策としてメマリー®︎の併用を開始しました。維持量の20mgまで増量したところ穏やかになりました。

涙もろくなり、診察室では「いかがですか、お食事はおいしいですか?」などと尋ねると涙ぐみながら「ありがとうございます」と答えます。

息子の顔と名前が一致しなくなりました。面会しても会ったことを覚えていないからです。息子の名前を呪文のように言い続けていることもありました。忘れたくなかったのでしょう。

火の不始末

ホームの居室には簡単な調理ができるミニキッチンが付いていました。本人はそこで入居以来、簡単な調理やお茶を入れたりしていました。このころから火の不始末が出現したため、コンロを撤去しました。

X-5年、嫁の存在を忘れました。冷凍食品をそのまま食べるようになりました。

不安発作

精神的にはときどき過呼吸になり、不安発作を来すようになりました。

あるとき息子が電話すると、本人が「先ほど部屋に知らない人が入ってきて『この薬を飲まなければ死にますよ』と言って、私に無理矢理薬を飲ませようとした。怖い」と言いました。電話口でもはあはあと息苦しそうになっていました。

いままでにない発言です。「もしかして本当にあったことなのではないか」と思った息子が施設に確認しました。すると、施設では拒薬のある本人に対して「何とか薬を飲ませようと脅したり、時に強い口調で言い聞かせていた」というのです。

不安発作の原因

その話を聞いて私のほうから施設のケアマネジャーに連絡を取りました。「本人がその場で薬を飲まないときには無理に飲ませようとせずに、いったん引き上げるように」と頼みました。「1日のなかで、できるタイミングで何度か勧めてみてください」「もし飲めない日があってもかまいません」と話しました。

施設のほうでは「医師が処方した薬は絶対に必要なものなので、何が何でも内服させなければならない」と、内服させることが最優先となっていたのです。

内服させることよりも本人の気持ちを優先してもらいました。この結果、本人の強い拒否や興奮、不安発作などはなくなりました。

弄便

認知症は徐々に進行し、排便後に便を触ってしまう行動が見られるようになりました。動作も全般に緩慢になりました。

X-4年、MMSE9点になりました。MMSEはアルツハイマー型認知症の進行度合いを評価するための簡易な知能評価スケールです。30点満点です。9点は重度の状態です。

本人は施設内で他の利用者の部屋の呼び鈴を鳴らして歩くようになりました。

抗認知症薬の変更

アリセプト®︎を長らく服用していたのですが、このときからリバスタッチパッチ®︎に変更しました。抗認知症薬は長く服用していると効果がなくなってきます。現在は3種類発売されているため、この3種類の薬を半年から1年ごとにローテーションして使うことが主流となっています。

X-3年、もともと入っていた施設では対応しきれなくなり、重度の認知症専門の老人ホームに移りました。

リバスタッチパッチ®︎18mgで皮膚のかぶれが出現したため9mgに減量しました。小さいパッチであれば皮膚症状が出ませんでした。別の老人ホームに移ってからは認知症の進行が遅くなり、大きな変化なく過ごしました。

MMSEは8点になりました。当院への通院のため嫁が迎えに行くと、嫁のことは施設のスタッフだと思っています。

保続

診察室で、医師が「体調はいかがですか」と尋ねると「おしっこ出ます、おしっこ出ます」と、何度も呪文のように唱えています。保続という症状です。何度も同じ言葉を繰り返します。前頭葉の機能低下が進むと出現します。

語彙は減り、簡単な単語いくつかしか理解できません。

X-2年、MMSE10点でした。

歩行も徐々に不能となる

歩行器も使用できなくなり車椅子です。医師との会話は噛み合わず、「ハンコ押しました、ハンコ押しました」と何度も言います。保続です。

このころから誤嚥性肺炎を繰り返すようになりました。嚥下障害が出現し、診察時にも喉の奥でゴロゴロと痰が絡んでいます。

食事の経口摂取が不十分になり、エンシュア・リキッド®︎を1日2缶飲むようになりました。

X-1年、医師が「お食事はおいしいですか?」と尋ねると、「知らん!」と答えます。仏頂面で不機嫌です。

抗認知症薬の中断

機嫌が悪くなったため、施設の担当医がリバスタッチパッチ®︎を中止しました。抗認知症薬の副作用でイライラしたり、易怒性、興奮などが出現することがあるからです。すると不機嫌さは改善しましたが、食欲が低下し、臥床がちとなり、反応が鈍くなりました。

飲食しないため点滴処置が必要でした。血清アルブミン値が2.3mg /dLまで低下しました。栄養失調です。そして帯状疱疹を発症しました。本人の免疫機能が低下したからです。

リバスタッチパッチ®︎は抗認知症薬です。アセチルコリンエステラーゼ阻害薬の一つですが、他の2剤、アリセプト®︎やレミニール®︎に比べて食欲増進作用があることが知られています。リバスタッチパッチ®︎を中止したことによる食欲低下が疑われました。

このため、私は施設の担当医に連絡してリバスタッチパッチ®︎4.5mgを再開してもらいました。いままでよりも少量なので、易怒性は出ないだろうとの判断です。

胃ろうの提案

施設の担当医のほうでは胃ろう造設の話が出ました。

X年、胃ろう造設について家族は迷っていました。重度の認知症になり、回復の見込みはないので、胃ろうを造設すれば死ぬまでそれが続くのです。

リバスタッチパッチ®︎の再開で食欲自体は以前より改善したものの、嚥下障害の影響もあり、食事摂取量は不十分でした。施設の担当医は、採血結果を見ながらときどき点滴を行っていました。点滴をしているあいだは抑制が必要です。自己抜去を防ぐためです。両手にミトン、体幹抑制されることもあったようです。

ターミナルケア

ターミナルケアについて考えるときがきました。息子は「胃ろうは考えていない」と言いました。本人の若いころの発言によるものです。

施設の担当医は、点滴と時おり経鼻胃管を挿入しての経管栄養を行い始めました。もちろん、どちらの場合も本人は抑制されます。点滴が刺さっている腕や、管が入っている鼻が、鬱陶しいから自己抜去するのです。

抑制しないで済む方法

胃ろうを造設すれば腕や顔に管がありません。栄養剤を注入するときだけ管を繋ぎますが、管は腹部にありますので腕や顔よりは気になりません。

胃ろうは注入した栄養剤がチューブを伝って逆流し、気管に入ると誤嚥になりやすく、誤嚥性肺炎のリスクが高いのです。

「胃ろう造設をして、抑制しないでQOLを上げたほうがいいのではありませんか? 体にメスを入れることになりますが鼻が鬱陶しくなくなり、ミトンをしなくて済みますし、誤嚥性肺炎のリスクも減ります」

私は意見を述べました。

息子は、黙って聞いています。

「現在行っている経鼻胃管による栄養剤の注入もすでに一つの延命処置です。お母さまが『延命はしないでほしい』とおっしゃっていたのなら、経鼻胃管をやめて、経口摂取だけにして食べる量が自然に減り、そっと看取るというのも一つです」

嫁は頷いています。

しかし、私の意見を聞いたうえで、息子は抑制を行ってでも胃ろう造設しないで経鼻胃管でやっていくことに決めました。

「母は、元気なころは『延命はしないでほしい』と言っていました。胃ろう造設は断ろうと思います。体にメスを入れることは受け入れられません。胃ろうを造設しないことによって肺炎などの病気になって、寿命が短くなってもかまいません。

しかし、すでに行なっている経鼻胃管は続けます。栄養失調が進んで死に向かうことは受け入れられません。栄養剤の注入自体は母が嫌がっていた『延命』ではないと思うからです」

内服薬の中止

内服薬の服用が難しくなったのでジプレキサ®︎とメマリー®︎は中止しました。もちろん、薬を粉砕して水に溶かし、経鼻胃管から注入することもできましたが、ほぼ寝たきりになり精神症状の治療が不要になったことで、不要と判断しました。

リバスタッチパッチの中止も提案しました。もはや食欲が問題になる段階ではありません。また、家族の顔もよくわからないのです。抗認知症薬を継続する意義はないと思いました。

しかし、家族の考えは違いました。本人がいまだに言葉を発することがあり、意思の疎通がまったくできないわけではありません。また、笑顔が出ることもあります。家族は「意思表示や笑顔など感情表現があるうちは認知症の進行を遅くしたい」と言いました。「単語レベルの会話や笑う機能の喪失までは抗認知症薬を継続したいです」と、強く希望しました。

このためリバスタッチパッチ®︎4.5mgはその後も継続しました。体重は20kg台まで落ちました。

X+1年、再度、誤嚥性肺炎になりました。

自分で寝返りが打てなくなり、体位交換が必要になりました。

経鼻胃管を挿入したままになり、ほぼすべての栄養を経管に頼るようになりました。本人はたまに「みかん」などと言うことがあり、そのようなときにスポイトでジュースを少し口に含ませると嬉しそうな顔をします。

単語での意思表示と笑顔の機能は維持されていました。経管栄養のおかげで体重は40kgほどまで回復しました。

感染症を繰り返す

X+2年、経鼻胃管のままほぼ寝たきりで全介助です。肺炎や尿路感染症を何度も繰り返しました。経鼻胃管は胃ろうに比べて誤嚥性肺炎を起こしやすいのです。

家族の顔はまったくわからなくなり、面会に行くと「あほ!」と言って怒鳴ったかと思うと、次のときには「ありがとう」と言って泣いたりします。

徐々に言葉が出なくなり、あいさつ以外は「あー」と、ただ声を出しているだけになりました。

骨折

X+3年、ほぼ寝たきりなのですが、いつの間にか下肢を骨折していました。

骨はなかなかつきませんでした。ギプスが巻かれ、骨折治療のため床上排泄となり、バルーンカテーテル留置になりました。延命処置はしない方針でしたが、管は2本になりました。

花見、そして旅立ち

X+4年、なんとか骨がつき、ストレッチャー生活から車椅子生活に復活しました。

経鼻胃管とバルーンカテーテルが入っていましたが、車椅子で外出できるようになり、花見に行ったそうです。

診察時の嫁の話では、本人は花を見て嬉しそうにしていたということでした。

桜が散り始めた日、私がクリニックに出勤すると待合室に嫁の姿がありました。つい先日、診察したばかりです。何があったのでしょう。涙を浮かべています。

私の姿を認めると嫁は話しかけてきました。

「母が亡くなりまして……今日はご挨拶に来ました。先日の受診後、また肺炎になりまして。今度はだめでした」

花見の後、間もなく誤嚥性肺炎になり、今回は回復しなかったということでした。

経鼻胃管は本人の望みだったのでしょうか。本人が望んだ晩年だったのでしょうか。

末期の認知症で抗認知症薬をいつ中止するのか。そもそも中止するのか、しないのか。ときどき問題になります。

最後に桜を見たとき、笑顔が保たれていました。抗認知症薬のおかげだったのでしょうか。

正解は、わかりません。

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西村知香
認知症専門クリニック「くるみクリニック」院長。神経内科医。認知症専門医。介護支援専門員(ケアマネージャー)。1990年横浜市立大学医学部卒業。1993年同医学部神経内科助手、1994年三浦市立病院、1998年七沢リハビリテーション病院、2001年医療法人社団・北野朋友会松戸神経内科診療部長を経て、2002年東京都世田谷区に認知症専門のくるみクリニックを開業。