認知症の人の金銭管理について考えてみましょう。
認知症になると金銭管理にさまざまな問題が生じます。暗算ができなくなり小銭が数えられなくなると、札を出して釣りをもらう形式になり財布がパンパンになりカバンが重くなります。
同じものを何度も買うなど、適切に買い物できなくなれば浪費につながり財産を失います。
支払いが適切にできなくなると滞納になります。公共料金を滞納するとガスや電気が止められてしまいます。買った物の支払いをしないで督促状がたくさん舞い込むようになります。家賃を滞納すれば立退を命じられ、住処を失います。
財布が重い程度ならさほど問題にはなりませんが、電気やガスが止められたり住処を失うのは大きな問題です。本人に代わって誰かが金銭管理を代行する必要があります。
このため、認知症の人には成年後見制度の利用を勧めます。判断能力の程度によって3つの区分が定められています。判断能力が正常なうちにあらかじめ後見人を定めておく任意後見という区分もあります。後見申請を行う際には医師の診断書が必要になります。
当院の廊下から、大声で話している声が聞こえてきました。当院通院中の認知症の人の長男です。付き添いで来院したようです。診察室の中まで内容がはっきり聞こえてくるような大声です。
「とにかく生活費がおろせなくて困っているんですよ! 後見人と言われてもね……母は僕よりも記憶力が良いんです。だから後見人なんていらないんです! どういう手続きをすればいいんですか?」
携帯電話で誰かと話しているようです。そもそも院内は携帯電話での通話を禁止しています。内容から推測すると通話の相手は金融機関のようです。私は看護師に指示をして、玄関脇のスペースで通話するように申し入れました。
声は遠ざかり、とりあえずは素直に玄関から出ていったようですが、これから診察室で話をしなければなりません。
これまでの経過
独身の長男と二人暮らしです。
X-3年、家の中で物の置き場所がわからなくなり、貴重品や身の回り品を頻繁に出し入れするようになりました。どこに入れたかわからないので1日中探し物をしています。探し物ばかりしており、掃除、洗濯、炊事などの家事をほとんどやらなくなりました。
本人曰く、ある時、自宅で片付け中に現金20万円を捨ててしまいました。その話を聞いて驚いた長男が本人が骨粗鬆症で通院中の病院に相談したところ当院を紹介され初診しました。
初診時の状態
日常生活動作は自立しています。歩行障害はなく体の動きは自然です。挨拶はきちんとできて人当たりは良好です。性格は変わらないということでした。幻覚や妄想はありません。
MMSE(Mini-Mental State Examination)という簡易な記憶力の検査を行いました。30点満点の検査で25点でした。できなかった項目は、時間や場所などの見当識がマイナス3点。遅延再生という短期記憶の検査でマイナス1点。セブンシリーズという100から7を順に引いていく検査でマイナス1点でした。これから推測されるのは、記銘力障害と集中力や注意力の低下が存在するということです。点数だけから判断すると軽度認知障害の段階です。
軽度認知障害とは正常と認知症のあいだのグレーゾーンです。簡単にいうと、物忘れはあるものの生活に支障がない段階です。
頭部MRI検査を行いました。大脳皮質はびまん性に萎縮していましたが特異的な所見はありません。
軽度認知障害
私はその結果を本人と長男に説明しました。
「軽度認知障害の段階です。今後アルツハイマー型認知症に移行する確率は1年間で10%程度といわれています。認知症への移行を防ぐには、脳の活性化を図ること、抗認知症薬の服用などが有効といわれています」
長男は言いました。
「軽度認知障害なんですか? もの忘れはひどいですよ。心配です。とにかく家では年中探し物をしていますし、大事なものが出てきません。もう認知症になってしまっているのではありませんか? お薬をください」
このようなとき、同居家族の観察のほうが検査結果よりも重要です。早期のアルツハイマー型認知症なのかもしれません。
相談のうえアリセプト®︎を処方しました。
さっそく介護認定申請してもらい要介護1になりました。脳の活性化を図るためデイサービスを始めました。デイサービスに行くと元気になって帰ってきます。またおしゃれをして行くようになるなど、以前と変わりました。
長男
抗認知症薬の服用とデイサービスの導入で小康状態になりました。すると今度は長男が自分ももの忘れがあるのでみてもらいたいと言いました。
MMSEを行ったところ、29点でした。正常です。頭部MRIでも大脳萎縮は見られません。「認知症ではありません」と説明しました。
長男は「よく眠れない」と言いました。睡眠が取れないと頭がぼんやりして注意力が低下します。結果としてケアレスミスが増え、もの忘れが目立つようになることがあります。
ひどい不眠の場合には、うつ病が隠れている場合もあります。まずは睡眠を改善する治療を行うのも一つです。そのように話しました。すると長男は言いました。
「不眠症は別の病院で薬をもらっていますので、そちらの病院でまた相談してみます」
長男の診察はいったん終了になりました。
現金を捨てたのか使ったのか
本人の当院受診のきっかけは現金を捨ててしまったことでした。
X-2年、本人に金銭管理について尋ねると、通院を始めてからは現金をなくすようなことはなくなり、金銭管理は自分でできているということでした。
長男にも話を聞きました。すると現金を紛失するようなことはいまのところないのですが、相変わらずハンドバッグや鍵がないないと騒ぎ、1日中探し物をしているということでした。
長男は「初診時に母は『過って現金を捨ててしまった』と言っていましたが、いまにして思えば本当は使ってしまったのではないかと思うのです。『使った』というと僕に怒られるので『捨てた』と言ったのではないでしょうか」と言いました。
本人にも尋ねてみました。すると「確かに以前、長男からもらったお金30万円を捨ててしまいました。現金が入った封筒ごとです」と言いました。「使った覚えはないですか?」と聞いても「いいえ、捨ててしまったのです」と言います。初診時には「20万円」と言っていたのが「30万円」になっています。
メマリー®︎併用
自宅で物を探しているあいだにパニックになり興奮して「ない!ない!」と大声を出すようになりました。このためメマリー®︎の併用を開始しました。
メマリー®︎は中等度〜重度の認知症に用いられる抗認知症薬です。現在販売されている抗認知症薬4種類のなかで唯一のNMDA受容体拮抗薬という分類の薬剤になります。この薬は興奮を鎮めたり情緒を穏やかにする作用を併せ持つという特徴があります。主な副作用は頭痛、めまい、血圧上昇、便秘などです。中等度〜重度の認知症に使用することになっている薬剤ですが、この人のように軽度の場合でも、興奮や情緒不安定など精神的な症状があれば使用することがあります。
メマリー®︎服用後は興奮する頻度が減りました。
保健師からの電話
そんなある日、保健師から電話が入りました。「いつも本人に同行している長男の件で情報提供と依頼」とのことでした。
「認知症の母親と同居している長男には以前から精神疾患があり向精神薬を服用しています。長男には判断力の低下を窺わせる言動があり監視が必要なので、母親のほうに訪問看護を入れようと考えています。指示書をお願いします」ということでした。
指示書の作成依頼を待っていましたがしばらくしても来ることはなく、そのうち私もこの件は失念していました。
長男の再受診
長男がまた受診したいと言います。今度は手の震えなどを見てもらいたいということでした。
「じつは半年ほど前から手が震えます。ひどいときは体全体が震えます。考えがまとまらなくなって、記憶が薄れます。朝は起きられませんので支障が出てきました」
「朝起きられなくて会社を休みますか?」
「会社ではなくて作業所に通っています」
作業所というのは精神や知的など何らかの障害のある人が通うところです。飲んでいる薬について伺いました。すると統合失調症の治療薬を服用していることが判明しました。保健師からの情報通りです。半年前に強い薬に変わってから震えがひどくなったようです。
認知症の検査をもう一度してほしいというので再検査しましたがMMSE29点で前回と変わりません。3つの言葉を覚えて暗算の後で思い出す項目、遅延再生で1失点でした。軽度認知障害といえますが、統合失調症による認知機能低下または抗精神病薬の副作用による認知機能低下のどちらかが疑われました。
手や体の震えは薬剤性パーキンソン症候群によるものでした。その旨を本人に説明しました。精神科の主治医に相談するように言いました。
統合失調症による認知機能低下
長男の精神科の主治医は抗精神病薬を減量しました。すると震えはなくなりました。ところがもの忘れは改善しませんでした。認知機能の低下は統合失調症そのものによるものだったのです。
「もの忘れがひどいんです。母と同じ薬を飲みたいです」
統合失調症による認知機能低下は抗精神病薬で治療するのが本来です。しかし長男は抗認知症薬の服用を強く希望しました。
「抗認知症薬はお母さまのようなアルツハイマー型認知症の人に処方するもので、あなたのような統合失調症の認知機能低下には通常使用できません」
勝手に薬を飲む
「じつは母の薬を飲んでいるのです。飲んだらすごく調子が良いのです」
これはいけません。母親に処方されたアリセプト®︎を長男が勝手に飲んでいるというのです。
そもそも処方薬というのは処方された本人以外が服用してはなりません。もしも自分が処方された薬を他人に譲り渡した場合は違法行為です。薬事法違反です。医師法や麻薬及び向精神薬取締法に抵触する場合もあります。
これは自分がもらった薬を他人に譲り渡した場合ですが、家族が飲んでいる薬を勝手に飲むことももちろんいけません。それは医師が一人ひとりの症状に応じて熟慮の末に処方した薬を、単に「症状が似ているから」という素人考えで他人が飲むことにより治療効果が得られないばかりか副作用などにより取り返しのつかないことになる場合があるからです。
私は長男にそのように注意しました。精神科の主治医に相談するように話しました。
長男の結婚
まもなく長男が結婚し、同居した嫁が家事全般を行うようになりました。母親本人は家でやることがなくなりました。
アリセプト®︎とメマリー®︎の処方とデイサービス通所は継続していました。初診からおよそ1年が経ちましたので頭部MRIとMMSEを行いました。MMSEは23点でした。初診時に25点でしたので少し低下しています。その原因は画像検査で判明しました。
頭部MRIで大脳白質に直径1cmほどの新しいラクナ梗塞ができていました。またこの1年間で体重が5kg減少していることも判明しました。ラクナ梗塞が加わり認知機能が低下したことから、アルツハイマー型認知症と血管性認知症の混合型認知症と診断しました。
長男に症状の変化について尋ねると、「食が細くなりました。仕事がないからかもしれません。何度も同じことを繰り返し聞く回数が増えました。物の置き忘れも多いです。デイサービスには週3回通っていますが、デイサービスがない日にはほとんど座ったきりです」と言います。
ほとんど座ったきりで過ごしているのはアパシーです。血管性認知症に多く見られる症状です。
認知症の進行
X-1年、MMSE22点に下がりました。
食事をしたかどうかを忘れるようになりました。朝晩の時間がわからなくなり、入浴する時間がまちまちになりました。冷凍食品を冷蔵に入れたり、冷蔵のものを室温に放置します。鍵やリモコン、携帯電話などの身の回りの品々を頻繁に紛失します。
デイサービスに行く曜日がまったくわからなくなりました。尿失禁が出現しました。このため尿取りパットを使うようになりました。家にいる時間が増え、足が弱り歩行器を使用するようになりました。
地域包括支援センターからの電話
本人はデイサービス通所など介護保険サービスを利用しており、ケアマネジャーが付いていました。私は日ごろから連絡を取り合って、デイサービスの増回を依頼したり、サービス中の様子について情報提供を受けるなどしていました。
しかしあるとき、ケアマネジャーではなく地域包括支援センターから直接私に電話が入りました。その内容はこうでした。
「認知症の母親のほうに後見人を付けたいのでお電話しました。同居の息子からの経済的虐待があるようなのです。じつはケアマネジャーや在宅介護サービスの各事業者への支払いが滞っているのです。
本人にはかなりの額の遺族年金が入っており十分に足りているはずなのですが、年金が入ると長男が勝手に下ろして高価なスマートフォンや家電など欲しい物をどんどん買っている様子なのです。
また年金だけで足りなくなると消費者金融から借金をして支払いに充てているようなのです。借金がいくらあるのか把握しきれていませんが、かなりの額にのぼっているようです。ご本人の年金は、その借金の返済にも充てられているようなのです」
母の役割が果たせなくなる
「もともと長男には浪費癖があり、高額なものを次々買っては母親が返品していたのです。認知症になる前はそうやって母親が処理していました。
認知症になったいまでは誰もそれを止められないうえに、作業所で知り合った結婚相手も精神に障害があり、一緒になって浪費をしているようなのです。長男自身の収入は障害年金だけです。
まずは本人に後見人を付け、それから長男にも保佐人を付けたいと考えています。診断書をお願いできますか?」
行政が長男による経済的虐待から本人を守ろうというのです。
訪問看護からの情報
1年半ほど前に保健師から電話があった際には「訪問看護を入れる」という話があったことを思い出しました。私は訪問看護指示書を書いていませんでした。
「訪問看護を入れるという話があったと思うのですが」
「ああ、息子さんのほうに入りました」
長男のほうに精神科訪問看護が入っていたのです。その指示書は長男の精神科の主治医が作成していました。
「訪問看護からの情報では、長男は以前に仕事はしていたもののアルバイト程度だったようです。クビになったこともあり、いまは無職だそうです。妻がいますが、妻も障害者なので収入は難しく、母親の年金がなければ生活保護になるでしょう」
長男が暴れ出す?
「懸念されるのは息子さんの攻撃性です。訪問看護師からの情報では、長男は攻撃性が強く、暴言を吐いて相手を威嚇します。アルバイトが長続きしなかったのも暴言が原因だったのです」
地域包括支援センターの担当者は言いました。
「母親に後見人が付くと不満で暴れるかもしれません。クリニックや地域包括支援センター、ケアマネジャーなどに対して暴言や、場合によって暴力の可能性もあり注意が必要です」
「それは避けたいですね。長男にうまく説明して納得してもらえるように話してみます」と私は言いました。
「もしも息子さんがクリニックや関係職種、あるいは母親にさらなる害を及ぼした場合には医療保護入院をお願いしたいと思っています」
医療保護入院は精神保健福祉法に規定されています。医療と保護のために入院の必要があると判断され、患者本人の代わりに家族等が患者本人の入院に同意する場合、精神保健指定医の診察により、医療保護入院となります。連絡の取れる家族等がいない場合、代わりに市町村長の同意が必要です。
虐待ケア会議
このような虐待事例の場合、虐待ケア会議にあげて本人を措置入所させる方法もあります。
「虐待ケア会議にあげてはどうですか?」と私は聞きました。
「それも考えましたが、母親を保護しても長男が通帳と印鑑を持っている限りは経済的虐待が防げないのです」
私は後見診断書を作成することにしました。
半年ぶりの来院
X年、およそ半年ぶりに本人と長男が受診しました。
診察待ちのあいだ、長男はあちこちに電話していました。大きな声で話しています。
「とにかく生活費がおろせなくて困っているんですよ! 後見人と言われてもね」
看護師が注意すると玄関の外に出ていきましたが、大きな声での電話は続いていました。診察の順番が回ってきたので看護師が呼びに行きました。母親と一緒に入室し、長男は言いました。
「母は体が衰えて、歩くときに介助が必要になりました。しかし、頭はしっかりしていますし、僕より記憶力が良いんです。認知症は治ったんだと思います。だから治ったということを検査で証明してほしいんです」
後見診断書を作成してから半年が経ち、本人に後見人が付きました。家庭裁判所で選任された弁護士です。金融機関は一斉に長男がお金を下ろすことを認めなくなりました。
診断書を要求
長男は言いました。
「家庭裁判所に『後見人は不要』という診断書を出してください!」
そんな診断書はありません。後見解除の手続きには、まずは後見解除の申立てが必要です。その後、精神鑑定書が必要になります。精神鑑定を行い、理由を明示して「後見を解除するに相当である」という書類を作成するのです。
私はその旨を長男に説明しました。
ふと見ると、診察室の入り口に1人の女性が立っていました。私たちの話を立ち聞きしています。「あなたはどなたですか?」と私が尋ねるとその人は隠れるように少し身を引きました。代わりに長男が答えました。「妻です。大事なお金のことなので心配で一緒に来ました」。この女性も長男と一緒になって認知症の義母の年金を搾取しているのです。長男が結婚してから経済搾取がエスカレートしたのです。
結婚はお金目当て? そんな思いが頭をよぎりました。もしかして長男は嫁に入れ知恵されて行動しているのでしょうか。
「まずは後見解除の申立てを行う必要があります」と私が言うと、長男は「わかりました」と言いました。そしてその日はいったん帰りました。長男の嫁は挨拶もなく最後まで無言でした。
地域包括支援センターとの情報交換
そのようなことがありましたので、私は地域包括支援センターに連絡を取りました。そもそも後見診断書を作成したのは私です。
地域包括支援センターの担当者の話では、後見人が付いてから、長男は関係部署に頻繁に苦情の電話をしているということがわかりました。当初予想されていた通りでした。
「診断書の作成を求められていますが、どのように対応したらよいですか?」
私は地域包括支援センターの担当者に相談しました。
「やっと後見人が決まり、預金の状況や、長男の借金などについて調べているところなのです。ですから、長男からの苦情に対しては対応を保留にしてください」
長男からの書類
間もなく長男が未記入の後見診断書を送付してきました。送付されてきたもののなんのコメントもないのでそのままにしていると、数日後、長男が電話をかけてきました。
「そちらに診断書を送ったのですが、後見人は必要ないという一筆を診断書に記載して裁判所に提出してください」と言います。診断書は私が裁判所に提出するものでないことは言うまでもありません。そんなことで後見解除にはなりません。長男は手続きについてよく理解していないのです。
「後見解除に必要な手続きを家庭裁判所にちゃんと聞いてから行なってください」
当院の相談員からそのように長男に申し入れました。理解したのかしなかったのか不明ですが、その後長男からの電話はありません。母親の金銭が母親本人の介護費用として使われますように。そう願いました。
認知症専門クリニック「くるみクリニック」院長。神経内科医。認知症専門医。介護支援専門員(ケアマネージャー)。1990年横浜市立大学医学部卒業。1993年同医学部神経内科助手、1994年三浦市立病院、1998年七沢リハビリテーション病院、2001年医療法人社団・北野朋友会松戸神経内科診療部長を経て、2002年東京都世田谷区に認知症専門のくるみクリニックを開業。