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認知症は進行性の病気なので、経過中に症状が次々と変化していきます。

記憶が過去にさかのぼり、数年前までのことを忘れてしまいます。家族が誰なのか忘れてしまうこともあります。

いままでその人らしさを形成していたスキルや趣味が失われ、好みや生き方まで変わってしまうことがあります。

性格自体が変わることもあります。

その人らしさを形作るのは外見だけではなく人間の大脳の働きも大きな部分を占めています。


看護師のための認知症患者さんとのコミュニケーション&“困った行動”にしない対応法

CASE 073
86才男性

定期的に通院している人が夫婦で診察室に入ってきました。妻が夫を介護してもう5年になります。ずっと在宅介護を続けてきました。

「最近の生活はいかがですか。困ったことはありませんでしたか」

私が尋ねると、妻は言いました。

「この人を夫だと思えません。目の前にいても見知らぬ患者のようです」

認知症が進行して家族の顔がわからなくなることはよくありますが、介護している家族が認知症の人を家族だと思えなくなってしまったのです。

どうすれば良いのでしょうか。

これまでの経過

もともと活発で楽天的、テニスやゴルフを楽しむスポーツマンで明るい性格でした。徐々に頑固になり、行動的だった人が徐々に面倒くさがるようになってきました。

X-10年、会話中に主語を間違えるようになりました。このため会話が噛み合いにくくなりました。その傾向は年々強まりました。

「この人、わかっているのかしら・・・」
妻は不安に感じるようになりました。

X-7年、もの忘れがひどくなりました。つい数分前に話した内容を忘れています。それでも日常生活はいままで通り普通に送ることができていました。

また、若いころから通っている地域のテニスサークルにも通い続けていました。

X-6年、長年悩んでいた鼠蹊ヘルニアのため、かかりつけ医から近くの病院を紹介されて一人で受診しました。

「何もしなくていいと言われた」と帰ってきましたが、1カ月後に腫れと痛みが強くなりました。

妻がいっしょに付き添って再度病院を受診しました。すると初診時のカルテに「ここでは診ることができないのでさらに大きな病院を受診するように」と書いてあったことが発覚しました。そのときに診療情報提供書も手渡されていたようなのですが、どこに行ったのかわかりませんでした。

受診内容が理解できなかったのです。もう一度、妻の求めで診療情報提供書を書いてもらい、ようやく大病院で鼠蹊ヘルニアの手術を受けることができました。

X-5年、自転車で近所を走行中に坂道で転倒しました。路面に投げ出されて足腰をしたたかに打ち、すぐには立ち上がれないほどのひどい打撲でした。

整形外科に通院しましたが骨折などはなく、自宅で安静にして療養しました。そのあいだにもの忘れが徐々に悪化しました。

昼寝をすることが増えました。テニスサークルに通わなくなりました。

抜歯した翌日に歯を抜いたことを忘れていました。

起き抜けに「お金を返さなくちゃ」と慌てていました。夢の続きのようでした。明らかにおかしいので妻が本人を当院に連れてきました。

初診時の状態

もの忘れはひどく、数分で忘れます。日時や曜日の感覚がなくなっており、スケジュール管理ができません。昼寝が多く、今までやっていた趣味をしていません。

頑固で妻のアドバイスを拒絶します。「テニスに行ったら?」「暑いからエアコン入れたら?」などと言ってもまったく実行しません。

金銭管理もできません。コンビニで簡単な買い物は可能ですが、2つ頼むと1つしか買ってきません。振り込みや引き落としなどの手続きはできなくなりました。

気温に鈍感で、暑いのにエアコンをつけずに平気です。

歩行速度は以前より遅くなりました。入浴頻度も週2回と以前より少なくなっていました。

検査所見

MMSE17点でした。3つの言葉を覚えてから、暗算をした後で思い出す短期記憶(記銘力)を調べる遅延再生という項目で0点でした。また年月日曜日がすべて言えませんでした。そのほかにできなかった項目は、場所的見当識、セブンシリーズという100から7を引く計算、三段階の命令の実行でした。集中力、注意力、記銘力が低下しているということです。

頭部MRIの所見では、両側の海馬が萎縮し側脳室下角の開大が見られました。画像所見はアルツハイマー型認知症に典型的な所見です。

本人は診察室では礼儀正しく、言葉遣いは丁寧で上品な男性という印象でした。表情は明るく、もの忘れについて話すときにもあっけらかんとしていました。

「妻はそう言いますけど、私は全然感じないんですよね」

そう言ってケロッとしていました。

典型的なアルツハイマー型認知症

病識欠如です。MMSEの失点や頭部MRIの典型的な画像所見に加え病識が欠如しています。このようなパターンはアルツハイマー型認知症に典型的です。すでに中期に入っています。

妻は本人よりも一回り年下でした。若くてまだ現役の会社員です。表情は暗く「これからどうなるのでしょう」と不安そうに言いました。

妻は言いました。

「人柄が変わってしまい、受け入れられません。優しくできないのです」

私は言いました。

「アルツハイマー型認知症ではよくあることです。別人のような性格になってしまうのです。具体的には感情が平板化し深刻味がなくなります。だらしがなくなったり、意欲が低下します」

「夫にさようなら」

「夫にさようならと言わなければなりませんか?」

「そんなことありません。別人のように見えますが、いまでもこの人はあなたの夫です」

進行を遅くするためにデイサービス通所を勧め、抗認知症薬も服用してはどうかと勧めました。本人も「1日1回の薬なら飲んでもいいかな」と言ったので、まずはアリセプト®︎を開始しました。薬の管理はできません。妻が管理して服用させました。

この薬の副作用は約2%くらいの人に消化器症状の吐き気、下痢、軟便、食欲低下が出現します。飲み始めたところ特に副作用はありませんでした。

「ジムに通っています」と言いますが、実際にはそれは去年の話です。自宅では夜も寝て、昼も寝て、寝てばかりです。このような症状をアパシーといいます。これは前頭葉の機能低下による症状です。

易怒性と意欲

しばらく服用していたところ、怒りっぽくなりました。妻がテレビを観ていると「音がうるさい!」と怒ります。妻が食事中に話しかけると「ゆっくり食事をさせてくれ!」と怒ります。

お金の管理が難しいので財布は妻が預かっていましたが「俺の財布に触るな!」と怒るようになりました。

その一方で、しばらく通っていなかったスポーツクラブに通い始めました。一人で行くことができ、ロッカーを利用しプールで泳いで帰ってきました。

一方、夜中に突然起きて「カードを返せ!」と妻を叩き起こしました。

意欲が出て活性化しましたが、怒りっぽいのには妻が困りました。易怒性と意欲はセットになっていることが多いのです。

妻と相談の上、アリセプト®︎を中止しメマリー®︎に変更しました。

NMDA受容体拮抗薬

アリセプト®︎はコリンエステラーゼ阻害薬ですが、メマリー®︎はNMDA受容体拮抗薬です。コリンエステラーゼ阻害薬は3種類ありますが、一般的に脳内のアセチルコリンを増やして神経伝達を促し脳を活性化します。このため、意欲が出たり元気になりますが、一方で怒りっぽくなったり興奮してしまうこともあります。

メマリー®︎に変更してから易怒性が劇的に改善しました。NMDA受容体拮抗薬であるメマリー®︎は、脳神経細胞の過度の興奮を抑える作用があるのです。

服用し始めには、アリセプト®︎の飲み始めにいったん行けるようになっていたジムに行けなくなりました。妻はがっかりした様子でした。しかし、しばらく服用しているとまたスポーツクラブに通えるようになりました。

遅くなっていた歩行速度が速くなりました。以前のようにキビキビ歩きます。

徐々に眠気が強くなってきました。朝寝坊になりました。これはメマリー®︎の副作用かもしれません。血液検査を行うと血清クレアチニンが1.2mg/dLありました。腎機能が低下しています。メマリー®︎は腎排泄の薬剤なので、おおむね高齢者で血清クレアチニンが1.0mg/dL以上の人では通常量を服用すると血中濃度が上がりすぎて副作用が出やすくなります。

メマリー®︎を20mgから10mgに減量しました。

旅行を楽しむ

X-5年、「スポーツクラブとテニスに欠かさず通っています」と診察室では毎回そう言いますが、テニスは前の年から行っていません。

夫婦で旅行が趣味でしたが、妻は2人で行くことに不安を覚え兄弟の助けを借りました。温泉旅館に泊まりましたが、大浴場には兄弟に付いて行ってもらいました。1泊でしたがとても楽しく過ごすことができました。

旅行の記憶は数日間残りました。とても楽しかったようです。

旅の後、意欲が出て近所の歩こう会に参加しました。何度かハイキングに参加して、会の忘年会にも参加しました。新しい仲間と楽しく過ごすことができました。

失敗で落ち込む

その忘年会の帰りに、鍵や財布、交通系ICカードが入ったバッグを紛失しました。交番に遺失物届を出しましたが出てきませんでした。気持ちが落ち込みました。

濃い味が好きになりました。以前は減塩醤油でもおいしいと言っていましたが「まずい」というようになりました。

X-4年、入浴を嫌がるようになりました。この段階はアルツハイマー型認知症のFAST分類の6b、やや重度の段階です。

入浴しない

歩こう会のハイキングには参加しましたが、スポーツクラブには行かなくなりました。スポーツクラブは貴重な入浴の機会だったので、入浴の場がまったくなくなってしましました。

まったく入浴しないので、3日に1回妻が全部脱がせて服を取り替えるようになりました。洗髪もしないので髪の毛がべったりしています。

入浴サービスを受けるためにデイサービス通所を希望しましたが、妻が送り出せる時間にお迎えが来ないことがわかり、一度は諦めました。妻はまだ現役の会社員なのです。

私は送り出しヘルパーを提案しました。デイサービスの準備だけお願いするヘルパーです。妻が出勤した後に自宅を訪問し、デイサービスに行く準備を手伝いデイサービスの送迎スタッフに引き継いでくれます。

他の人に助けを求める

スポーツクラブは継続できなくなり退会しました。若いころから50年間通ったスポーツクラブでした。退会しましたが、そのことは忘れて毎回「通っています」と言います。

仕事、家事、介護に追われて妻がいっぱいいっぱいになっていたので、誰かに助けを求めるようにアドバイスしました。旅行に付いて行ってくれた本人の兄弟に相談してみるように話したところ、兄弟が週1回来て本人を散歩に連れて行ってくれるようになりました。

床屋に行く習慣は残っていたので、髪の毛が汚れてきたなと思ったら妻が床屋に行くように促しました。そして「床屋に行くのに臭いと相手に失礼だからシャワーを浴びて行きましょう」と妻が言うと床屋に行く前にシャワーを浴びてくれるようになりました。

着る服が選べないので妻が全部用意します。本人の前に置けば自分で着ることはできます。

食事の準備ができないので妻が食事を出してくれるのをひたすら待っています。妻が仕事で遅くなると「ご飯まだ?」と電話をかけます。

尿意が徐々に薄れて朝一番はトイレに間に合わないことが増えました。

ゆるやかに認知症は進んでいきました。少しずつわからないことが増え、自分の食器や箸がどれなのか迷うようになりました。そんな日常の些細な変化を妻は日々感じていました。

妻の話が聞けなくなる

妻はまだ会社に勤めていました。職場で嫌なことがあると夫に話していました。以前であれば話をよく聞いてくれて的確なアドバイスをしてくれました。しかし、このころには職場の話をすると「うるさい!」と一喝されるようになってしまいました。

このような性格の変化を感じると「元の夫ではない」と強く感じ、目の前の夫が別人のように感じます。そんなことが積み重なっていきました。

徐々に進行している印象でしたが、MMSEは17点で前年と同じ点数でした。MMSEという検査は記銘力、見当識、集中力、言語機能、空間認識などを簡易に調べる検査です。認知症で現れる症状には、このような検査で点数化できない症状がたくさんあります。

「待っている」「感情を抑える」などの能力が明らかに低下したと言います。これらはMMSEではわかりにくい前頭葉の症状です。

頭部MRIを施行したところ、大脳皮質のびまん性萎縮が進行していました。

介護サービス利用を開始

私が「悪化しています」と言うと、妻は「デイサービスに預けたいです」と言いました。

私はケアマネジャーにデイサービスの導入をお願いしました。早速デイサービスを入れてもらいました。

妻は、怒りっぽくなったり、待てないなどの症状が頻繁になってきた夫がデイサービスにちゃんと参加できているのか心配でした。

それを聞いたケアマネジャーがデイサービスに本人の様子を見に行きました。本人は他のメンバーといっしょにボールを使ってのゲームをしていました。張り切って楽しそうに参加していました。

サービス利用に前向きになる

妻は「ケアマネジャーさんの話を聞いて、他の人の力を借りたり、いろいろな介護サービスを使って夫を大事にして介護も楽しく続けられるようにしていこうと思いました」と、診察のときに言いました。

X-3年、薬はメマリー®︎を継続していました。当初易怒性は劇的に治まりましたが、最近はときどき怒ります。それでもすぐに怒っていたことを忘れてケロッと明るく過ごしています。

認知機能も、デイサービスで皆の前で挨拶したことなど、印象深いことは1週間ぐらい覚えていることができました。

また、デイサービスの場所を覚えることができました。このため、デイがない日にも1人で歩いて行ってしまいました。デイサービスが楽しいから行きたいのです。たまたまデイサービスの空きがあったので、歩いて行ってしまった日は預かってもらえました。これを機にデイサービスを週3回に増やしました。

言葉が通じにくい

MMSE14点に下がりました。言語機能の障害も出てきています。口頭指示が入りにくくなりました。また書字がうまくできませんでした。セブンシリーズの失点も目立ちました。

頭部MRIで両側側頭葉、海馬、前頭葉の萎縮が進行していました。

「家にいると寝てばかりいるんです。去年までは書いていたお中元の礼状も書けません」と妻が言いました。

易怒性はこのところ影を潜めていました。このため、コリンエステラーゼ阻害薬の併用を再度試みることにしました。

当院初診した頃にアリセプト®︎を服用したところ易怒性が悪化したので使用をやめていた薬剤です。

妻の心情としてはアリセプト®︎は怒りっぽくなって困ったという印象が強く、別の薬にしてほしいという希望がありました。このため今回はアリセプト®︎ではなく貼付薬のリバスタッチパッチ®︎を使いました。

お礼状が書ける

リバスタッチパッチ®︎を18mgまで増量したところ、いったんできなくなっていた書字がまたできるようになり、お中元のお礼状が書けるようになりました。

暗算も間違えなくなりました。

しかしながら18mgになってから皮膚が赤くなるようになりました。盛り上がったり水疱ができたり、痒くなることはありませんでした。パッチの形そのままに丸く赤くなるだけです。これはかぶれではなく血管拡張による症状です。弱めのステロイド軟膏を処方したところ、すぐに治りました。

X-2年、貼付剤の併用を開始してから少し持ち上がりましたが、その後もじわじわと認知症は進行しました。

怒鳴ってしまう妻

できないことがあると、病気とわかっていながら妻が怒鳴ってしまいます。特に排泄の失敗にはイライラが止まりませんでした。トイレで排尿する際に、下着やズボンを下ろしきれなくて汚してしまうのです。必然的に尿臭が強くなります。

臭いというのはたいへんなストレスです。排泄物の臭いには、慣れるということがありません。デイサービスは週4回に増やしました。さらにショートステイも申し込みました。

会話も噛み合わなくなりました。

暑くなりましたがエアコンの付け方がわからなくなりました。

徐々に元気がなくなり、食が細くなりやせてきました。

ショートステイに救われる

ようやくショートステイの順番が回ってきて、2泊だけ入れることができました。すると食事がよく摂れるようになり、元気も出ました。家にいないほうが良いことを痛感し、妻は次のショートステイを予約しました。そして、もっと長く泊まれるように申し込みました。

X-1年、次のショートステイを励みに、家事や仕事もしながら妻はがんばっていました。

そんなある日、突然本人が歩けなくなりました。布団の上から起き上がれません。トイレにも行けません。足腰が立たなくなりどうしようもないので、妻は救急車を呼びました。

熱があることがわかりました。熱の原因はわかりませんでしたが2日で下がり、退院することになりました。

介護用ベッド

自宅の寝室は和室で、布団を敷いて寝ていましたが、この経験を機に介護用ベッドをレンタルすることになりました。すぐにケアマネジャーが手配して、福祉用具の業者がテキパキとベッドを設置して退院に間に合いました。

退院後の診察ではMMSE12点でした。さらに認知機能が低下しています。せっかく入れた介護用ベッドも自分が寝る場所であるという認識ができず、元のように布団を敷いて寝ようとします。ベッドで寝かせたい妻が何度言っても、本人は布団を出して寝てしまいます。妻はベッドで寝るように言うのに疲れてしまいました。

ベッドの使用は保留

「もう諦めました。具合が悪くなってベッドを使わざるをえなくなるまで様子を見ようと思います」

ショートステイは月1回1週間ずつ泊まれるようになりました。次のショートステイを指折り数えながらの介護生活です。

そんな矢先、X-6年に手術をした鼠蹊ヘルニアが悪化し再手術が必要になりました。

「手術をしたほうがよいのでしょうか……」

妻は迷っていました。

「腸が出たままになり壊死すると死ぬこともあると言われたのです」

私は言いました。

「死ぬこともある……それなら、手術をしたほうがよいのではありませんか」

死んだ方がマシ

妻は言いました。

「外科医から『入院中に認知症が進行することがあるかもしれません』と言われました。これ以上ボケたら夫は死んだほうがマシだと思います」

「死んだほうがマシ」とは強烈です。どうしてこんなことを言うのでしょうか。夫の介護に疲れているのです。妻自身が夫と共に生きていることに意味を見出せないほど追い込まれているのです。

私は言いました。

「そんな精神状態では、あなたは夫の介護はできません。いったん休んで立ち止まらないと無理です。まずは外科医を信じて手術をしてもらいましょう。ご主人は専門家がケアしてくださいますよ。そのあいだにあなたは介護から離れてこれからのことを考えてください」

妻はハッとした表情になりました。しかし、そこでは手術をするともしないとも言わずに帰っていきました。

外科医からの診療情報提供書

1カ月後、私の元に外科の手術をした病院から診療情報提供書が送られてきました。先日の診察のすぐ後に手術の予約をして、入院期間3泊4日で退院したという知らせでした。

外科病棟では認知症専門看護師が担当したので、入院中のせん妄について対策がしっかりできており、問題なく手術を受けられました。術後の経過も良好でした。

介護用ベッドに寝られる

入院をきっかけに自宅の介護用ベッドに寝るようになりました。これによってトイレ歩行時の介護が格段に楽になりました。床からの立ち上がりよりもずっと簡単に立てるのです。

認知症は徐々に進行しました。服の着方がわからなくなり、渡しても着ることができません。自分の名前以外の字は書けなくなりました。

MMSE7点になりました。

X年、夕方になると妻を自分の妹だと思うようになりました。また夜中に目が覚めたときなどには妻に「おかあさん、寒いから布団かけて」などと言うようになりました。

妻はストレス性の下痢症になりました。本人は徐々に痩せて風邪をひきやすくなりました。発熱するとせん妄のため認知機能はよりいっそう低下します。失禁が増え、下着や衣服を汚すのでひっきりなしに洗濯機を回しています。リハビリパンツはどうしてもはいてくれません。

ホームを見学

妻は近くの老人ホームを見学に行きました。そこで覇気のない表情の入居者の顔を見て躊躇してしまいました。

デイサービスやショートステイでは食事が取れるので、デイサービスを平日毎日、ショートステイも回数を増やしました。

3年前に認定された要介護1のままだったので区分変更申請をするようにアドバイスしました。サービスに自費が出ていたからです。

素直になる

MMSE5点に低下しました。口頭指示が入りません。自己主張がほとんどなくなりました。言われるままに素直に従うので一時期よりは介護がスムーズです。

ずっと使ってくれなかったリハビリパンツとパットも素直にはき、取り替えさせてくれます。食事も声かけすると素直に食べ、一時期痩せた分をみるみる取り戻しました。箸やスプーンを置いたまま手掴みになってしまうことが増えました。

介護保険課からの通知が当院にも送られてきました。要介護3でした。

診察のとき、私は言いました。

「要介護3になりましたし、リハビリパンツを毎日使うようになりましたから、区からオムツの支給が受けられます。申請してくださいね。何か困っていることはありませんか?」

夫だと思えない

妻は言いました。

「もう、この人のことを全然夫だと思えません。先日、区分変更申請の結果がきて『要介護3』というのを見た瞬間から、突然この人が見知らぬ患者に見えてしまって……。私のことを妹の名前で呼んだり、おかあさんとしか言いませんし……。ショートステイから帰ってきたときに自宅だということもわからないのです。でもショートステイから帰ってきて久しぶりに会うと『ああ、夫だな』と私の気持ちがちょっと立ち直るんですよ」

隣の椅子に腰掛けている本人は少し首を傾げて妻の話を聞いています。見た目は5年前とほとんど変わりません。顔色の良い上品な雰囲気の高齢男性です。いまここで私と妻が自分の話をしていることをわかっていないのかもしれません。

私は言いました。

「夫だと思えないかもしれませんが、この人はあなたの夫です。そろそろ施設に預ける時期かも知れませんね。たまに会うぐらいのほうがよいのですよ。きっと施設に入ってたまに会うようになれば、ご主人との時間を楽しく過ごせるようになるでしょう。またいろいろな施設を見学してみてください」

妻は急に笑い出しました。

「そうですよね! 私の夫ですよね! 先生に言ってもらってよかった。忘れるところでした。そうだ、前に見学した施設では『後見人になったほうがよい』と言われました。預金がすべて夫の名義なのです。成年後見診断書を書いてもらえますか?」

もちろんお書きします。

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西村知香
認知症専門クリニック「くるみクリニック」院長。神経内科医。認知症専門医。介護支援専門員(ケアマネージャー)。1990年横浜市立大学医学部卒業。1993年同医学部神経内科助手、1994年三浦市立病院、1998年七沢リハビリテーション病院、2001年医療法人社団・北野朋友会松戸神経内科診療部長を経て、2002年東京都世田谷区に認知症専門のくるみクリニックを開業。