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日本は高齢社会になりました。これに伴い高齢者虐待は社会問題化し、2005年に高齢者虐待防止法が制定されました。

虐待の原因はさまざまです。介護者側の疲弊も大きな一因です。肉体的疲労、精神的疲労が蓄積して追い込まれることによって思考障害が起こります。

まともなものの考え方ができなくなり、おかしな行動を取り始めます。


看護師のための認知症患者さんとのコミュニケーション&“困った行動”にしない対応法

CASE 079
83才女性

その人は認知症の妻を介護している男性です。

私を説得したいようなのです。カバンからノートを取り出すと、黄色い付箋がびっしり貼り付けられたページを開きました。そして一つひとつ読み上げ始めました。

止めないといつまでも続きそうです。

これまでの経過

夫婦二人暮しです。

明るい、天真爛漫な性格でした。社交的で面倒見が良く、子どもが小学生のころはPTAの役員をやっていました。洋裁が得意で、近所のブティックからサイズ直しを引き受けて、最盛期には8店舗ほどから仕事を請負っていました。

X-1年になり、急に性格が変わったようになりました。性格が暗くなり、ルーズなところが目立つようになりました。服の着方がだらしなくなり、ボタンを留めなかったり、裾がはみ出しても平気になりました。

子どもたちといっしょに住むため新居を建てて転居することになりました。家の新築費用の半分は夫婦が老後のために貯めてきた資金から出す予定です。

夫が引っ越し用の段ボールを用意したところ、その中に生ゴミを入れました。また夫が衣類を整理するように言っても「これからよ!」などと言っているだけでやろうとしませんでした。

物の置き場所がわからなくなり、保険証など大事な物も紛失しました。お金を下ろしに銀行に行き、暗証番号を何度も間違えて下せなくなってしまいました。対応に困った夫の付き添いで当院初診しました。

初診時の状態

もの忘れは酷く、しまい忘れが頻繁です。リモコンやスマートフォンの使い方がわかりません。薬を飲み忘れます。

テレビの前で過ごしており、通販番組を見ると電話して注文してしまいます。夫が注意すると怒ります。我慢がきかず衝動的です。

夕食後に2人でケーキなどを食べるのが楽しみでした。いままでのように夫がケーキを買ってきて冷蔵庫にしまっておくと、最近では夕食の前でも冷蔵庫を開けて本人がすぐに食べてしまうようになりました。夫の分も食べてしまいます。

夕食の準備をするときに、「姑が来るかもしれないから」といって3人分の食器を出すようになりました。同居していた姑は10年ぐらい前に亡くなっています。

身体的には、歩行時歩幅が狭くなり転びやすくなりました。ときどき膝を擦りむいていることに夫が気づきましたが、本人に尋ねてもいつ転んだのかわかりません。

「私が注意するとすぐに怒るのです。息子のときには素直なのですが」

記憶障害

MMSE20点でした。30点満点の簡易な検査ですが、20点を切ると在宅一人暮らしが難しい状態になります。

診察室で本人と話していると、息子が幼稚園のころの話を何度もします。息子はもう50代です。記憶が50年ぐらい前にさかのぼっているのです。

怒りっぽいというのでメマリー®を開始しました。メマリー®は抗認知症薬の一種、NMDA受容体拮抗薬です。脳神経細胞の余計な興奮を抑える作用があります。

他の抗認知症薬はすべてコリンエステラーゼ阻害薬で、脳内のアセチルコリンを増やすことにより神経細胞の働きを活性化します。神経細胞を興奮させる作用が強いため、易怒性が悪化することがあります。もともと怒りっぽい人に対しては処方に注意が必要です。

告知しない

薬の説明をするときになり、夫から「妻に病名を告知しないでください。かわいそうです」との申し出がありました。このため私は次のように説明しました。

「軽いもの忘れがあり、まだ予防できる段階です。予防薬を飲めば大丈夫ですよ」

メマリー®を開始してからしばらくは大きな変化はありませんでした。本人に対し初診時に病気の症状や薬について「軽いもの忘れがあり、予防薬を出します」と簡単に説明しました。しかし、次の診察時には全部忘れていました。夫はまだ会社員でした。会社勤めしながら、いままで妻がやっていた家事をすべてやるようになっており、疲れがたまっていました。

病気を治したい

「病気のことや薬のことを何度も説明しても覚えてもらえません。どうしたらわかってもらえるのでしょうか」

「新しいことを覚えるのは難しいので、根気よく毎回説明してください」

「この病気は治らないのですか」

「残念ながら治りません。今後進行していくと考えられます」

「どうにかして治したいのです。いったいいつから病気になったのでしょう。何がいけなかったのでしょうか」

「治りません。いつから病気になったかわかりません。何年か前でしょう。原因がわかりませんから『何がいけなかったか』などと考えないほうがよいですよ。過去を振り返って後悔するのではなく、これから何をしたらよいのか考えましょう」

私が説明しても夫は納得できていない様子でした。過去を振り返ってくよくよしています。

「これから進行を抑えるのがベストです。抗認知症薬を服用し、デイサービスなどで脳の活性化を図りましょう」

介護認定を断る

現段階でまだ夫が仕事をしているため、日中自宅で独居の状態です。私は夫に介護保険の認定申請を勧めました。介護認定申請の仕方を説明し、申請窓口について教えました。

説明を聞き終えた夫は言いました。

「もし本人が嫌がったらどうしたらよいのですか。調査の人が家に来ると言いますが、嫌がって拒否したときには介護保険が受けられないということですよね。デイサービスも、自分の両親が通っていたところに行くとなると、受け入れてもらえないと思います。両親については、認知症が重度になって徘徊するようになってからデイサービスに行き始めたので、軽症の段階で行くことに抵抗があるのではないかと思います」

まだ始める前から夫が及び腰になっていました。取り越し苦労です。「もし~たら」「~と思います」などの言い回しは要注意です。実際にやってみてできなかったら考えればよいのですが、最初からできないものと決め付けている様子でした。

この夫は妻の病気を受け入れることができていないのです。私のアドバイスも素直に受け入れることができなくなっています。

新しい家が覚えられない

介護保険の導入に難渋しているうちに、本人が自宅の近くで迷子になりました。近所に買物に行って自宅に帰ってこられなくなりました。帰りが遅いので夫が近所を探し回り、転居前の家の前で見つけることができました。

アルツハイマー型認知症では方角がわからなくなることを場所的見当識障害といいます。しかし、この場合の迷子はちゃんと前の家に帰ることができており、記憶障害による迷子です。新居を建築中で仮住まいの家に住んでいるということを覚えていないのです。

逆ギレ

本人は身の回りの大事なものをしまい込んでなくすようになりました。時計や眼鏡、現金などです。特に、銀行から下ろしてきたばかりの10万円を生活費として本人に渡した翌日になくしたときには、夫が我慢できずに「昨日下ろしたばかりじゃないか!」と怒ってしまいました。するとその10倍ぐらいの勢いで本人が激高しました。

そのうち夫が何か注意すると、毎回「あんたそんなこと言っていると出世しないわよ」と返してくるようになりました。何も考えていないのです。

前頭葉機能の低下

光熱費等の領収書を仕分けすることができなくなりました。分類整理ができないのは前頭葉機能の低下です。衝動性や易怒性と同じです。

元々PTAの役員を長くやっていたことがあり、地元にたくさん友だちがいました。夜の9時ごろに友だちに電話して、いったん切ってもまた電話するなどの行動を繰り返していたため、夫が「さっきもかけたし、もう10回目だよ。相手に悪いだろう」とたしなめたところ、「向こうからかかってきたのよ」と事実ではない言い訳をするようになりました。

嫉妬妄想

夫はまだ会社に行っていましたが、出かけようとすると「女の子と遊んでいるんじゃないの」と責められるようになりました。そのうち1時間散歩に行っただけでも、帰宅時に「また女の子と?」としつこく言われるようになりました。嫉妬妄想です。嫉妬妄想はレビー小体型認知症に多く見られる症状です。夫のストレスが徐々にたまってきました。

身体的には歩行障害が徐々に悪化して、歩行時のすり足が顕著となりました。パーキンソン症候群です。こちらもレビー小体型認知症にみられる症状です。

認知症の新薬

「認知症の新しい薬が出るとテレビで報道していました。うちの妻に使えませんか。あの薬を使えば治るのではありませんか」

ニュースで話題になっている新薬のことです。レカネマブ(商品名:レケンビ®点滴静注)という薬です。この薬はアルツハイマー型認知症の人の大脳に蓄積しているアミロイドβ蛋白を除去する薬です。初めての原因に対する治療薬です。

この治療薬の対象となる患者は、アルツハイマー型認知症による軽度認知障害または軽度認知症の段階の人です。投与経路が点滴静注なので、点滴ができる設備がある病院でないと使えません。また、副作用として脳内に微小出血を来すということがわかっており、出血の有無を確認しながら治療していく必要があります。

このため、従来の抗認知症薬のように誰にでも広く利用できる薬ではありません。

この人の場合はMMSE20点であり、症状から認知症は中等度以上になっています。また歩行障害や妄想があるため、典型的なアルツハイマー型認知症でもありません。

「この薬はアルツハイマー型認知症のごく初期の人にしか使えない薬です。薬を使うためには、精密検査をして脳の中にアミロイドが溜まっているかどうか確認しないといけないといけません。大きな病院で画像検査を行う必要があります。

それ以前に、現在の認知機能の状態では軽度認知障害から軽度認知症の段階を過ぎてしまっているため、対象から外れると思われます」

「だめですか」

夫はがっかりしていました。そしてさらに続けました。

妄想を治したい

「新薬のことはわかりました。もう一つ、妻が、私が外で女性と浮気していると思い込んでいるのです。1日中責められるので我慢できません。薬で何とかなりませんか?」

「妄想を抑える薬を服用してみれば、ある程度治まるかもしれません」

私はレキサルティ®を処方しました。

レキサルティ®0.5mg錠を1日1錠で嫉妬妄想がなくなりました。

「浮気のことは言わなくなりました。でも、私がもの忘れを注意すると壊れたテープレコーダーみたいに『あんた出世しないよ』とばかり言うようになりました」

「もの忘れを注意するのをやめてください」

急激な進行

X年、MMSE13点でした。急激に悪化しています。レキサルティ®を使用したことで認知機能が格段に下がったのです。

それまでは簡単な食事の準備などができていましたが、一人ではまったくできなくなりました。食事の準備は夫が行うようになりました。

掃除、洗濯もできません。夫が行っています。

買い物は夫婦2人で行きます。銀行に行き、ATMでお金を下ろしますが、本人は暗証番号を忘れています。またATMの操作もできません。下したお金をバッグにしまうともうどこにあるのかわかりません。

買い物から帰ると、冷蔵庫にしまうものと冷凍庫にしまうものの区別がつきません。

診察室で夫がそんな話をしていると、本人は横から「主婦は忙しくて」「主婦をやって50年ですよ」などと口を挟んできます。

夫がわからない

夫が本人から「あんた誰。うちの旦那の振りして。なんで共同生活しているの」と言われるようになりました。人物的見当識の障害です。これにはさすがにこたえたようです。

人物的見当識障害はアルツハイマー型認知症の後期に見られますが、そのほかにも見られる場合があります。レビー小体型認知症の人物誤認です。

レビー小体型認知症に多く見られる人物誤認妄想には大きく2種類あります。フレゴリ症候群とカプグラ症候群です。

フレゴリ症候群は、周囲の人々を知人が変装して現れたものと思い込む症状です。例えば老人ホームに入った認知症の女性が、見ず知らずの男性を夫だと思い込むなどの症状です。

カプグラ症候群は、よく見知った人物の中身が見ず知らずの他人に入れ替わっていると思い込む症状です。いっしょに住んでいる家族を見知らぬ他人だと感じてしまうのです。介護している夫に向かって「あなたは夫に見えるけど、本当の夫はどこに行ったの? あなたは誰?」などと尋ねます。

このケースはカプグラ症候群です。カプグラ症候群は、本人にとってのその人のイメージが、いま目の前にいるその人のありようと食い違うことによって起こることが多いようです。

優しくて仲良く暮らしてきた夫が、毎日小言を言うようになっています。また家事などしたこともなかった人が、目の前で掃除や洗濯、ご飯の支度などをしているのです。そんな人を夫だとは思えないのです。

「あんたの奥さんどこにいるの。なんで共同生活しているの。ここに泊まらないで家に帰れ! 奥さんいるんでしょ」と怒り出します。

生活障害が進む

部屋の電気のスイッチのつけ方がわからなくなりました。

「お風呂に入りなさい」と夫が言うと「もう入った」と断ります。

「薬を飲みなさい」と夫が言うと「誰かに言われたの? バカにするんじゃない! 弟2人を呼ぶわよ」と怒ります。

動作が鈍くなり、着替えや洗顔を夫が手伝うようになりました。

介護認定申請を受け入れる

夫はいままで介護認定申請を渋ってきましたが、再雇用の会社での勤務と家事のすべて、本人の日常生活の世話も必要になり、さすがに1人では介護しきれなくなり介護認定申請を行いました。

地域包括支援センターの人が来ることになりました。

私は地域包括支援センターの担当者に診療情報提供書を送りました。家事の援助と、本人の日常生活介護を行うためヘルパーサービスの導入を依頼しました。

夫が言いました。

「妻の調子が悪いときに遅刻したりして、会社の同僚に迷惑をかけているので、もう辞めようと思っています」

夫は日々の介護ストレスが蓄積しており、介護の場から離れて気分転換ができるのは職場だけです。仕事を辞めるべきではありません。

私は言いました。

「なるべく仕事は続けてください。仕事を続けながらどうやって介護も続けるかを相談していきましょう」

抗精神病薬の副作用?

着替えが全介助になりました。シャツやズボンを着せようとするときに体が硬くて動かしにくくなりました。パーキンソン症候群による固縮です。

レビー小体型認知症の進行によるものかもしれませんが、抗精神病薬の副作用の可能性もあります。妄想の治療に使っているレキサルティ®が原因かもしれません。

私は言いました。

「体が硬くて介護しにくいのは薬のせいかもしれません。嫉妬妄想を抑えるために出している薬をやめてみましょうか」

「また嫉妬妄想が出たら介護していられません。やめないでください」

薬はやめないことになりました。

そのうちほとんど足が前に出なくなり、歩けなくなりました。夜間の尿失禁が多くなりました。毎朝びしょ濡れのパジャマとシーツを洗い、本人を風呂に入れます。

お金がない

夫は本人を施設に入れることも考えるようになり、預金を調べました。

もともと金銭管理は本人に任せていました。給料はすべて渡して管理させていたのです。本人は若いころは定期預金を組んだり、堅実に家計の管理をしていました。

妻が金銭管理できなくなったX-1年から通帳などは夫が預かっていましたが、それ以外にも定期預金があったはずです。

調べて見ると、夫が認知症に気づいたX-1年以前の数年間に、老後の資金にと思っていた定期預金が次々と解約されていました。そのあいだにブティックやデパートなどで高額な服を衝動買いしていたのです。妻の箪笥を開けてびっくりしました。一度も着たことがないような豪華なパーティードレスなどがぎっしり入っていました。

洋裁で自分の小遣いを稼いでいたこともあり、ファッションが大好きで服装にはお金をかける習慣が元からあったようですが、認知症になって衝動性が高まり度を越してしまったのです。

新築費用が払えない

「病気だと気がつく前に妻が浪費していたので、私が稼いだお金はもう残っていません。いまは年金と再雇用の給料だけです。こんなことになっているとは気がつきませんでした。家の新築費用もまったく出せなくなり、子どもに全額ローンを組んでもらうことになりました。子どもたちに申し訳ない」

夫は涙ぐみました。

「私自身がカウンセリングを受けたいぐらいです」

思わぬ高額のローンになってしまい、子どもたちもつらい立場に置かれています。

「お母さんがボケないように、お父さんが気をつけなければいけなかったのに」と言って父親を責めます。八つ当たりです。

「奥さまが認知症になったのは、あなたのせいではありません。どうしようもないのです。子どもが言うことは間違っています。それに過去を振り返っても仕方がありません。これからできることをやっていきましょう」

介護保険利用開始

ようやく介護認定が出て要介護1になりました。

本人が歩けなくなったので、さっそく介護保険で車椅子を借りてもらいました。福祉用具貸与です。診察には夫が車椅子を押してくるようになりました。歩行障害に対してはリハビリテーションを導入してもらうことにしました。

入浴も全介助となったため、デイサービスでの入浴サービスを入れることになりました。夫が会社に行くので毎日デイサービスに預ける必要があります。要介護1ではサービスの点数が足りません。

要介護1の認定を受けたときよりも本人の状況は急激に悪化していました。ケアマネジャーから私に区分変更を行うので主治医意見書の作成依頼がきました。

抗精神病薬をやめる

流涎が出現しました。枕がびしょびしょになるほど涎が出ます。これも錐体外路症状、パーキンソン症候群の一部です。

「全介助ですし、ほぼ喋らなくなりました。妄想の薬のレキサルティ®は身体の硬さや歩行障害を悪化させ、失禁や流涎の原因になっているかもしれないので中止したほうが良いと思います」

私は再度提案しました。今度はレキサルティ®をやめることになりました。

健康食品

夫が相談に来ました。

「何十年も音信不通だった遠縁の親戚が突然電話をかけてきました。認知症に良いという食品を妻に食べさせろというのです。すごく高いのですがXXXという食品です」

「それはやめたほうがいいと思います。認知症の不安につけこんで高額な商品を売り込もうとする人たちがいます。確かに体に良いかもしれませんが、この病気が治ったり良くなるわけではありません」

「わかりました。もともとその人は新興宗教がらみで親族からもほとんど絶縁状態だった人なのです。付き合わないようにします」

レキサルティ®をやめましたが嫉妬妄想は再燃しませんでした。しかしパーキンソン症候群もさほど改善しませんでした。

新居が馴染めない

新居が完成し、子どもたちとの同居が始まりました。新しい家具や布団で生活することになったところ本人は「こんなところに寝たくない」と言いました。

無理やり寝かそうとして四苦八苦していたところ、夫は尻餅をついて圧迫骨折して身動きできなくなりました。通所中のデイサービスは宿泊もできる事業所だったので、すぐにケアマネジャーが宿泊のプランに変更しました。

夫は圧迫骨折して会社をしばらく休むことになりました。徐々に動けるようになり、台所仕事も少しできるようになりました。すると今度は会社に行かなくてもいいので台所仕事をしながら朝からビールを飲むようになりました。キッチンドランカーです。アルコール依存症の始まりです。

怒鳴ってしまう

レキサルティ®をやめてしばらくすると本人は少し歩けるようになり、また喋るようになりました。台所でビールを飲んでいる夫を見て「あんた、やめなさいよ」と注意するようになりました。

夫はムッとしてしまいます。酒の勢いもあり「誰のために朝ごはん作ってやっているんだ!」と怒鳴り返してしまいます。新居で同居を始めた子どもたちにその声が聞こえます。

区分変更の結果が出ました。要介護3でした。これでサービスの点数が足ります。

両便失禁するようになり、リハビリパンツをはかせるようにしました。要介護3になったのでオムツの支給が受けられます。お金がかからなくなりました。

子どもとの喧嘩

あるとき診察室で夫が言いました。険しい表情です。

「子どもたちが変なこと言うんです。介護の仕方にもうるさく口出ししてくるようになりました。迷惑です。いっしょに住まなければよかったぐらいです。それに『暴力振るってないだろうね』などと言うのです。子どもたちと喧嘩してしまいました」

朝から酒臭く、怒鳴り声が聞こえてくれば子どもたちはそう思うでしょう。

「私は暴力は振るっていません。でもムッとするとつい手に力がこもってしまうのです。だから妻の腕に私の手の跡がついてあざになってしまいます」

確かに本人の前腕には多数の内出血がありました。

暴力じゃないと言ってほしい

「これは暴力じゃありませんよね。暴力じゃないと言ってください」

そしてカバンからノートを取り出して開きました。

「だって妻はこんなことを言うのですよ。例えば体を起こそうとしたときには『あんた何様なのよ』、トイレでおむつを替えようと思って立っているように言うと『うるさいわね』、それから……」

夫は次々と付箋に書いたメモを読み上げていきます。私は驚きました。ノートにびっしり付箋が貼られ、自分が妻に言われたことを逐一メモしてきたのです。それを私に示して自分を正当化しようとしています。

「ちょっと待ってください、それを全部ここで読み上げるおつもりですか?」

「こんなこと言われて黙っていられないじゃないですか。当然でしょう? それを先生に聞いてもらいたいのです」

「私のアドバイスを聞きたいですか?」

「はい」

「まず子どもと喧嘩してはいけません。子どもは大事な家族です。子どもはあなたたち2人を心配しているのですよ。親を大事に思っているからいろいろ言うのです。

次に奥さまは病気になったせいで以前とはまったくの別人のようになりました。現在の奥さまの発言には何の意味もありません。本来の奥さまだと思わず、何を言われても聞き流し、言い返さない練習をしてください。

言われたことをメモしても何の意味もありません。むしろメモは有害です。思い出して書きながら『こんちくしょう』と思いませんでしたか? メモなどしないで忘れてください。

そして、怒りに任せて腕をぎゅっとつかんだら、それは虐待です。ムッとしたら心の中で数を数えてください。もう少し介護から離れるべきです」

夫は納得いかない表情ながらも震える声で「わかりました」と言い帰っていきました。しかし、すぐに行動が改まるとは思えません。ケアマネジャーに状況を伝えると、夫の休息のためサービスを増回するとの返事が返ってきました。

夫が笑顔になれる日は来るのでしょうか。

西村知香
認知症専門クリニック「くるみクリニック」院長。神経内科医。認知症専門医。介護支援専門員(ケアマネージャー)。1990年横浜市立大学医学部卒業。1993年同医学部神経内科助手、1994年三浦市立病院、1998年七沢リハビリテーション病院、2001年医療法人社団・北野朋友会松戸神経内科診療部長を経て、2002年東京都世田谷区に認知症専門のくるみクリニックを開業。

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