1.はじめに
みなさん、コロナ禍で多忙な業務のなか、このコラムを読んでいただきありがとうございます。
私は、現在、精神科単科の病院で勤務している看護師です。看護学校を卒業し、やや大きな組織の病院に就職しました。精神科での配属は、私の希望ではありませんでした。精神科病院の身体合併症病棟に10年勤務しました。院内の異動で精神科急性期病棟に3年、次に一般科(身体科)病院に異動し、5年間勤務しました。その後、いったんは看護職から離れましたが、現在の病院に入職しました。当院での勤務は8年目になります。
入職直後の身体合併症病棟では、さまざまな精神疾患をもった方々のケアをしました。依存症患者様では、アルコール依存症患者様の消化器外科と慢性硬膜下血腫などの脳外科看護をしました。精神科急性期病棟ではアルコール依存症・薬物依存症患者様の急性症状を呈した方の看護をしました。一般科では、おそらくアルコール依存症をベースにもった方の内科系看護や、救命センター後方病棟では薬物の過剰服薬した患者様の看護をしたことを思い出します。
依存症患者様の看護をするなかで、治療に拒否的な方もいれば、かかわれば素っ気ない態度できつい言葉をかけられることなどがありました。また、幻覚妄想状態の急性症状を呈している患者様は暴れることもあり、強い緊張と恐怖感を味わうこともありました。そのため私自身、依存症患者様には拒否感や抵抗感があり、消極的な看護をしていたと思います。そして、少しばかり長い看護経験があるのにもかかわらず、依存症患者様のケースを詳細に記憶してきませんでした。
私がなぜ依存症患者様のことを詳しく覚えていないかというと、記憶から遠ざけたい事情を抱えています。これは私の告白になりますが、依存症の家族をもっていたからです。このことは、最近まで一部の信頼できる同僚や友人にしか話してきませんでした。私は、生まれながらにして依存症という病気に深くかかわってきました。
私の生育は、楽しい思い出もありますが、家族の病気によって傷つきながら、自分の力と支えてくれた人の助けによって、ここまで生きてきたと思います。おそらく、私自身のことも依存症という病気を抱える人のことも否定・否認して生きていたと思います。ですので、依存症患者様の看護を記憶に留めてこなかったのだと思っています。
2.転機
私は現在、精神科亜急性期病棟で働いています。そこでは、依存症治療に熱心な医師がいました。その医師は、依存症の治療やプログラム、自助グループへの橋渡し・参加、地域とのつながりなどに情熱を燃やし、たいへん多くの患者様の治療や病院スタッフを動かしています。私自身、そのなかに身を置いていると、依存症治療や看護に対して否認し続けることに恥ずかしさを感じるようになりました。このままの姿勢でよいのだろうかと自分に問うようになりました。
その過程のなかで、心に残る患者様がいました。その方(以下、A氏)は、壮年期にさしかかる美しい女性でした。A氏はお仕事柄、お酒と密接にかかわる時間が多かったと思います。アルコール依存症を患い、当院に入院されました。A氏が急性期病棟から私の勤務する病棟に異動したときには、アルコールの離脱期を脱していました。物腰も柔らかく、身体から優しさが滲み出ていました。病棟内では、その優しい雰囲気からか、他患者様から相談を受けている場面もよくお見掛けしました。しかし、ときおり、A氏のふとした表情が悲しそうに見えることがありました。A氏は、「他人に迷惑をかける人、困らせる人」、つまり私自身が抱いているステレオタイプの依存症患者様とは真逆のような人でした。
私は、なぜA氏が依存症という病気になってしまったのかと考えるようになりました。患者様のカルテを読み、A氏の人生を想像しました。実際、A氏から詳しくうかがうことはできませんでしたが、その生活歴から必死に生きてこられたことを想像しました。
私の依存症患者様に対する感情や価値観が徐々に変化していきました。それぞれの当事者が必死に生き辛さを抱え、生きているのだと感じるようになりました。A氏とのかかわりは私にとって、気付きや学び、癒しの時間でした。今思うと、A氏が私に回復を与えてくれたのだと思います。
A氏の退院が決まり、外泊の指示が出ました。外泊訓練を繰り返すなかで、病棟スタッフも喜び、何度かA氏を自宅に送り出しました。しかしA氏は、退院間際の最後の外泊から病院に戻ってきませんでした。自分の命を断ったからです。退院前に、A氏は「断捨離をしている」と話していました。私たちスタッフは、いわゆる世間でいわれている、物を整理整頓する「断捨離」ととらえていました。退院前に自宅を整理整頓していると思っていました。しかし、最後の外泊時には自宅の荷物、病棟の荷物はすべて綺麗に片付けられていたそうです。A氏は計画的に旅立つ準備をしていたのだと思います。
依存症は、否認の病気といわれています。A氏は病院につながり、治療し、プログラムに参加することをとおして、依存症は病気であると学んでいたと思います。A氏をサポートする家族もいました。しかし、なぜA氏はその選択をしてしまったのでしょう。A氏は自分自身のことを否認して生きていたのでしょうか。孤独だったのでしょか。お酒という依存するものを失ったからでしょうか。これは私の想像で、断定はできません。今でも依存症患者様や回復者を見るとA氏を想います。そしてA氏のサインに気付けなかったことに後悔があります。
3.これから
当院では、スリップする患者様もいれば、回復し続けている患者様も通院しています。依存症という病気を抱えている人や回復者とのかかわりのなかで、それぞれが抱えている気持ちや生き辛さ、苦悩を知ることができました。またこの職場には、依存症治療や看護に精通し、情熱を傾けている医療スタッフもいます。患者様が回復しているのは、患者様自身の力、自助グループの力、サポートをする人々の力だと実感しています。
私は、目をキラキラと輝かせ「依存症看護が好き、ハマった」と心から言えない発展途上の看護師です。今回も医師からこのコラムの話をいただいた際に、「依存症のコラムは書けない、できたらこのことから逃げたい、辛く悲しい過去のことも思い出すし、だけども自分のことを曝け出さないと綺麗事を書くことになってしまうし、自分のことを書くことは同僚からどんな目で見られるか恥ずかしいし、そして今もなお毎日辛く苦しいのに……」とたくさん心のなかで思いを叫んでいました。しかし、時間の経過とともに私の気持ちが変わってきました。医師が与えてくれたこの機会は、私の気持ちを書くことが回復なのかもしれないと思うようになりました。
看護師を志したときに、依存症看護とかかわって生きるとは思ってもいませんでした。偶然の配属から、さまざまな経験を経て、A氏や、私を支えてくれる人々と出会うことができました。回復することは、決して簡単なことではありません。このように悲しい結果もあると思います。しかし、さまざまなよい出会いや体験、人のサポートによって、人は回復することができるのではないかと希望をもつこともできました。今、私にできることは、A氏の教訓を生かし、患者様の回復のお手伝いができたらと思っています。そして、患者様とともに回復できたらと願っています。