1.ある言葉との出会いから始まった
―神さま、私にお与えください 自分には変えられないものを受け入れる落ち着きを 変えられるものは変えていく勇気を そして、2つのものを見分けるかしこさを(ニーバーの祈り)―
AA(アルコホーリクス・アノニマス/アルコール依存症の自助グループ)で唱えられる、この祈りは、依存症のみならず人とかかわる仕事をしている以上、大切な教えだと私は思っています。私に信仰はありません。でも、この言葉は、私が精神科医療の現場で精神保健福祉士として働くなかで、とても大切にしている言葉です。この言葉に出会ったいきさつが、私が依存症に「ハマった」きっかけです。
2.わからない、から始めること
「まったくわからない…」。それが、私が最初に「依存症」とともに生きる方々と出会ったときの感想でした。
出会いは、大学時代に受けたAAについて学ぶ授業でした。AAメッセンジャーの方々が授業中に開催するミーティングに学生も参加し、地域のAAミーティングに学生が参加しにいくことを課題とするという風変わりな授業でした。当時は、なにを言っているのかまったくわからない、と戸惑いつつも、自分にはわからない生き方をする人がいる、という現実を教えてくれた印象的な授業でした。
その後、大学を卒業し、一般企業に勤めました。精神保健福祉士の受験資格を得られるゼミに所属していたにもかかわらず、気持ちを決めきれなかったためです。しかし、大学時代に亡くなった恩師から「あなた自身から逃げないこと」と言われた言葉が忘れられず、結局は精神保健福祉士として精神科の現場で働こうと肚(はら)を決め、退職しました。
退職後すぐ、夜間の専門学校に進学しました。そこで私は精神科医を生業としている講師の精神医学の授業を受けました。彼は「患者さんがすべてを教えてくれる」と言いました。「依存症の人はすごい。知らなかったなぁっていうのをたくさん教えてくれる。依存症の人とかかわることは、人とかかわることだ」と目元をくしゃくしゃにしながら話していました。そのうえで「ワーカーになるなら、熱い心と冷たい頭が必要だ」と、一見、好々爺に見える奇妙な風貌をしたその先生は言いました。
なんとなく私は亡くなった恩師の面影を重ねながら、以前ホームレス支援の団体を立ち上げるサポートをしていたというこの先生の言葉をふわふわと反芻しつつ、路上生活者とよばれる人とかかわるボランティアを始めました。そして、ここから、「依存症」とよばれる方々と、私のかかわりが本格的に始まりました。
3.わからない、から逃げないこと
「大丈夫だ」と寒い路上で、酒を片手に笑顔を見せる人がいました。何年も路上で生活をしていたその人は、なにを話しても「大丈夫だ」「ほっといてくれ」と返答しました。
その人に、最初は戸惑いました。寒くて、家もなくて、お金もなくて、栄養も足りていなくて、歩くのもやっとのその人が、それでもなぜ酒を止めないのか、路上生活から抜けずにいるのか、いろんな人にたかられながら酒をおごるその人を見て、私は「わからない」と思いました。「わからない」ゆえに怒りの感情を向けそうになることもありました。でも、それは八つ当たりだと思い、無力感を覚え、路上から自宅に戻って気持ちがくさくさしているときに、大学の授業をふと思い出しました。何年も前の資料をあさり、そこで、改めて、きちんと出会いました。それが、冒頭に紹介した、ニーバーの祈りです。
自分には目の前にいる人を変えることはできない。でも、今、自分が「わからない」と思っていることを、認めよう。自分は、自分、相手は相手。そのうえで、冷静な頭で考えてみよう。過去と他人は変えられない。でも、自分は変えられる。その思いをもって、あの寒空の下で、なんとなく意地を張っているようにしか見えないあの人が、本当は何か自分で変えたいと思っているものがあるかもしれない。気付けるように、まずは自分が変わろう、と。そう思ってかかわりを再開しました。
「わからない」と思いながら、その自分を認めながらかかわり続けるなかで、私はふと、その人が「大丈夫だ」という言葉を使うときに、目の揺れのようなものを感じられるようになりました。私が、熱すぎる頭で気付くことができなかった、声に出さないその人の「変わりたい」という思いを少し感じられるようになりました。
紆余曲折がありながら数年にわたってかかわりを続けたその人は、今は酒もやめ、サポートを受けながら穏やかに一人暮らしをしています。
4.わからない、と向き合い続けること
専門学校を卒業し、ボランティア活動を中断した私は、その後、2つの精神科病院に勤めました。最初の精神科病院は精神科慢性期の患者さんが多く、「依存症」とよばれる方と出会うことは多くはありませんでした。それでも、ときどき「わからない」と感じる「依存症」とよばれる方々や、依存症だった方々(覚せい剤後遺症など)と出会う機会がありました。
出会うたびに、彼ら彼女らの物語に惹かれる自分がいました。私は、よくいえば、ときに、孤高ゆえの苦しさを、悪くいえば、ときに、独りよがりで自分勝手な美しさを、彼らに対して感じていました。自分自身にも周りの人にも嘘を吐いているように見えながらも、それでも時にとてもあたたかなまなざしで言葉を紡ぐ彼らに、私は「わからない」思いを抱きながらも、彼らと言葉をすり合わせていくことに、楽しさを覚えるようになっていきました。
「わからない」ことを言葉にしたいと感じ、私は大学院に進学しました。テーマは依存症ではありませんでしたが、大学院を修了後、ご縁があって国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所 薬物依存研究部に研究生として籍を置くようになりました。そして、現在、私は、多摩あおば病院で精神保健福祉士として勤めています。勤務先が変わり、研究生として研究もするなかで、それまで出会った「依存症」の方々はアルコールによるものが大半でしたが、今は処方薬・市販薬・違法薬物・ギャンブル・性・風俗(ホストなど)・自傷・摂食障害・ネットゲーム・スマホなど、より幅広く「依存」とともに生きる方々に出会うようになりました。
「依存」「依存症」と一口にいっても、それぞれの人生があって、思いがあって、出会うたびに「わからない」と頭を抱えることは増えました。それでも、かかわるたびに、自分自身の扉が少しずつ開いていき、なんでもいいから生きていればいいか、とおおらかな気持ちも芽生えつつ、「今日一日」を生きることを大切にしたいと思うようになりました。
日々の仕事のなかで、「依存症」ではない患者さんたちとの出会いも、たくさんあります。ただ、正解かどうかはわかりませんが、どんな疾患や障害があったとしても、私自身が支援をするなかで、大切にしている姿勢をいちばん形作っているのは、間違いなく「依存症」です。それは、あくまで私の勝手な想像ですが、精神疾患があろうがなかろうが、すべての人は、自覚の有無にかかわらず、なにかに、そして誰かに、程度の差はあれ依存して生きているからではないかな、と思っているからかもしれません。
「依存症の人とかかわることは、人とかかわることだ」という言葉が、年齢を重ねるごとに染み込みつつ、「わからない」と向き合い続けています。そうすると新たな気付きと、同時に「わからない」が増えていくのですが、やめられません。そんな私は「依存症治療のハマったさん」であるのだろうと思いますが、その自分を、受け入れていこうと思っています。