主人公は、麻酔科医としてICUで勤務していた。しかし、ある件をきっかけに自分が「擬似患者体験プログラム」の参加者として、ICUに入室した患者側になることに……。
擬似患者といいながら、気管挿管にリハビリや清潔ケアなどリアルなICUを患者として体験する主人公と家族、医療者に様々な想いが交差する。
同じ物語を小説版と漫画版の双方で楽しみながらICUを学べるコンテンツとして発信中!
小説は本ページで、漫画はinstagramで公開中。
第六章:擬似患者体験プログラム
インターホンの画面の中で、男は微笑んでいた。
黒いスーツと黒いネクタイ。白い玄関灯の下で、その無彩色だけが妙にくっきりして見える。笑っているのに、目が笑っていない。そう見えるだけかもしれないのに、胃のむかつきがもう一段上がった気がした。
……誰だ?
声にならない音が、喉の奥で止まった。もう一度チャイムが鳴る前に、ドアのチェーンをかけたまま鍵を回し、少しだけ開けた。
違う空気が足元から入り込んだようで、それだけで体が震えた。
「こんばんは」
男は丁寧に頭を下げた。動きに無駄がなく、年齢もよく分からない。
若く見えるのに、古くさいような。髪はきちんと整えられているのに、流行から少し外れている。肌は不自然なくらい白く、頬に赤みがない。瞬きの回数が少ないせいか、目の奥が妙に澄んで見える。視線は僕の顔に合っているのに、焦点が少しだけ外れているようにも感じた。
「高遠、大智先生でいらっしゃいますね」
なぜ名前を知っている? そう思ったのに言葉にならない。考えるのが億劫で、うなずいてしまう。
「……はい」
「初めまして。八田海斗(はちだ かいと)と申します。本日はお話がありまして……」
八田は、チェーンの向こう側で微笑んだまま、視線を揺らさない。
僕は相手の目を見ないようにして、目を伏せた。細身の革靴。光り方が均一で、外を歩いてきた気配が薄い。
「何の用ですか」
八田は、ほんの一拍だけ口を閉じた。言葉を探しているというより、周囲の音を数えているみたいだった。
「……ここではちょっと」
「ここでは?」
僕が聞き返すと、八田は声を落とした。さっきよりさらに丁寧だが、抑揚がない。
「お疲れのところ恐縮ですが、外でお話しできる内容ではございません。先生ご本人に関わることでして……」
その言い方が、胸の奥に小さな針を落とした。後ろめたいような気持ちで、誰にも聞かれたくない、と体が先に反応する。自分が何を隠しているのかも分からないのに。
八田は続けた。
「玄関先ですと、ご近所の方にも……。内容によっては、ね。先生にご迷惑がかかりますので」
迷惑という単語が、僕の弱いところにきれいに刺さった。今の僕には、説明する力がない。ここで押し問答をする気力もない。何より、誰かに聞かれるのが怖い気がした。
「突然で申し訳ございません。ただ、先生はお疲れのご様子でしたので。今夜のうちに、お伝えしておいた方がよろしいかと……」
続けてお疲れという言葉も胸に刺さった。否定したいのに、否定する力がない。僕はドアの隙間から、もう一度八田の顔を見た。
表情は変わらず困ってもいないような、急いでもいないような顔で、まずは断られることすら予定の中に入っている様子だった。
「……中で、話しますか」
チェーンを外す指先が、わずかに震えた。八田は、微笑みのまま頷いた。
「ありがとうございます」
鍵を外す音が、家の中でやけに大きく響いた。
八田は、玄関で靴を揃え直してから、静かに上がった。音が静かすぎて、床を踏むのに体重が乗っていないみたいだった。
僕の部屋は散らかっていない。散らかす余裕がないだけで、整っているわけでもない。ここに他人を入れるつもりなんてなかったのに。
「どうぞ」
言ったあとで、何をどうぞなのか、自分でも分からなくなった。
八田は小さく頷き、リビングの入り口で一度立ち止まった。室内を見回すのではなく、空気の温度を確かめるように、呼吸をひとつ置いた。
「先生、お時間は少しで結構でございます」
その声は玄関先と同じように丁寧で、抑揚が薄い。それなのに、家の中だと妙に響き、耳の奥に残った。
僕はテーブルの上を片手でさっと片付けた。片付けたつもりが、缶の輪郭だけが残っている。腕は熱いのに背中は寒く、指先は冷たい。
「改めまして、八田と申します」
八田は上着の内ポケットから名刺を出した。
紙は白いのに、印字が薄く、曖昧で焦点が合わない。電話番号らしい数字も見当たらない。文字は見えているし、確かに読めるはずだ。なのに、目の奥に薄い膜がかかったみたいに、意味だけが滑っていく。視線を寄せるほど、かすれたインクの輪郭が滲んで、文字がふわっと浮いた。
僕は瞬きをして、もう一度見ても、読めそうで読めない。
「……連絡先は?」
八田は微笑みを崩さない。
「必要なときは、こちらからご連絡いたします」
「それじゃ困るでしょう」
声を強くしたつもりなのに、強くならず、怒りの火が途中で息切れする。
「先生が困らないように設計されています。ですので、困る必要はございません」
八田は、困った顔もせず謝りもしなかった。ただ、事実を並べるみたいに言った。
その言い方が、患者に大丈夫、と言う時の口調に似ていて、胸がざわついた。僕は椅子に座った。座った瞬間、膝の力が抜けた。
目の前のテーブルが少し遠く、焦点が合うまでに、一拍かかる。
「それで、話って何ですか」
八田はソファには近づかず、テーブルの端で、書類の入った薄い封筒を取り出した。
「まず、こちらを」
封筒を差し出される。僕は受け取って、すぐ置いた。開けるのが面倒だった。読むのが怖いわけじゃなくて、怖いと認めるのが嫌だった。
「ちょっと疲れてるので、説明してもらっていいですか」
「もちろんです」
八田は頷き、淡々と話し始めた。
「担当直入に申し上げますが、本日お伺いしましたのは、【擬似患者体験プログラム】への参加のご案内でございます」
「は?」
擬似患者体験プログラム? 何をいってるんだ、こいつは…と少し苛立った。
しかし八田は淡々と、当然のことのように説明を続けた。
「はい、擬似患者体験プログラムです。一定期間、患者としての体験をしていただき、レポートを随時提出していただきます」
「レポート……」
「はい。先生が感じたこと、判断できなかったことや、しなかったこと。よかったこと、悪かったこと。なんでも結構です。ご自身の言葉で伝えて欲しいのです」
判断できなかったこと。その一言で、今日の赤い逆血が蘇りかけて、胃がきゅっと縮んだ。僕は息を整えようとした。でも整わないから、整えるのをやめ、浅い呼吸のまま聞く。
八田は続けた。
「先生は、ICUで勤務されておりますよね」
「はい」
もうこの後に及んで、なんで僕がICUで働いているかを知っているのかまで問い詰める元気がなかった。
「この社会は、病気になった時の自分について、考えが浅はかなのです。もちろん、ICUなんて単語を知るだけで、実際がどうなのかは誰も知りませんし、知ろうともしていません。さらにいえば、ICUを通過した患者さん達の、その後も知りません。当然、いざという時に何を選択し、どう過ごすかの話もしていなければ、自分たちがどう生きるかの話も、多くの場合はされておらず、準備がございません」
「……ACP、PICSの話ですか」
「はい、さすが。ご存知ですね」
その言い方が、妙に癇に障った。僕はわざと、ICUで日々戦う僕らが口にする言葉を選んだ。それでも八田は、知っている人間の口ぶりで返してくる。
ICUで勤務していると、痛感する。
なぜここまで、自分がどう生きたいかの議論がなされていないのか。大切な人が、何を考えて、何を望み、どう生きたいかを、話し合わないまま日々は流れていく。日常なんて、いつ非日常になってもおかしくないのに。当たり前の生活なんて、いつ崩れてもおかしくないのに。
全力で治療をした先に、元の生活に戻れる場合もある。戻れない場合もある。戻れたとしても、本当の意味で元に戻るのがどれだけ大変か、そこから先は本人にしか分からないことも多い。
「まぁ、日々それらに携わっていますからね」
八田は微笑んだまま続けた。
「そうでしょうね。用語として表現するならば、そうですね。……ですが、用語は重要ではございません」
その言い方が、僕を医師として扱っていない感じがして、妙に刺さった。
「高遠先生。……先生は今日、怖かったはずです」
また心臓が一拍だけ跳ねた。なぜ知っている、なぜ断言できる。僕は何も言っていない。
「……何が、……ですか」
八田は微笑んだまま、言葉を変えない。
「あ、大丈夫です。改めて語らずとも承知しておりますので。今日、怖かったはずです。だから、今、ここにいらっしゃる」
おまえに何がわかるんだ、そう言い返したかったのに、舌が動かなかった。喉が熱い。唾がうまく飲めない。僕は視線を落とした。テーブルの上の封筒が、白く浮いて見える。
封筒の角だけが妙に鮮明で、周りが少しぼやける。
「今夜は、無理をなさらない方がよろしいです。お話は手短にいたします」
苛立ちを遮るように八田は続けた。一瞬の苛立ちもすぐに鎮火してしまい、反論する力がでなかった。手短に、と言われると、こちらが拒む余地がなくなる。
僕はそれが嫌で、わざと視線を逸らした。テーブルの端、封筒、名刺、缶の輪郭、どれも現実のはずなのに、輪郭だけが浮いているように見える。
「本日、先生が決めることは多くありません」
その言い方が、さっきより危険に聞こえた。決めることが多くない、というのは、救われる言葉でもあり、逃げられる言葉でもある。
「このプログラムに参加するか、否かです。私としましては、参加に同意された方が、高遠先生のためになるかと考えますが。あくまでも、先生ご自身のお考えも聞かせていただかねばと」
話の主導権がこちらになく、同意が前提のように話が進められているように感じる。自分のことなのに拒否権のない契約みたいに聞こえる。
「……同意って」
「はい。参加の意思を、ここで確認させていただきます。後ほど変更も可能です。途中で中止することもできます」
後からでも変更ができて中止もできる…何かのセールスみたいで、安心させるための言葉が並ぶほど、なぜか不安が増す。僕は自分の手を見た。震えは目立たない。でも、指先が冷たい。冷たいのに、腕の内側は熱い。
八田は慣れたように封筒を開けた。紙の擦れる音が、部屋の静けさにやけに大きく響く。中から出てきたのは、数枚の書類だった。分厚くはない。でも、白い紙が重なっているだけで、何かを決めさせる圧が生まれる。
「こちらが説明書でございます」
八田は一枚目の上部を指で押さえた。文字は見えるのに、内容が頭の中に入ってこない。参加、同意、実施、確認。似た言葉が並んでいるだけで、意味が薄くなる。
「内容は、先ほど申し上げた通りでございます。これから先生には、患者さんになっていただきます。ICUという場を、患者として擬似体験していただき、その感想を随時、レポートとして提出していただく。そのための説明事項です」
八田は一拍も置かずに続けた。
「これは、安全なものです。本来であれば、お仕事をお休みいただく手続きや、保証等、レポートの方法等の詳細もご説明いたしますが、先生はお疲れのご様子ですので、本日は要点のみお伝えいたします」
安全という単語は、現場で散々聞いてきたのに、いまは信用できない響きがした。信用できないのに、縋りたくなる。
「……患者体験。これに、サインを?」
「はい。先生のお名前だけで結構です」
聞きたいことは山ほどある。誰が、どこが、何を、どうして、いつから、いつまで? 本当に途中でやめられるし、安全なのか、もし何か起きたら。そもそも、僕が? なぜ、僕が?
それなのに、同意書を目の前にすると、やはり拒否権なんてないように感じてしまう。
さらにもう一つ、まとまらない気持ちもあった。ICUに居続けたいのに、逃げたい。真逆の気持ちが、同じ場所に居座っている。またICUに行ったら、同じように動いて、同じように判断して、誰かの命を預かる。預かれるのか。そう考えた瞬間に、胸の奥がきゅっと縮んだ。
このプログラムに参加すれば、少なくとも今夜は、そこから離れられる。そう思ってしまった自分が、いちばん怖かった。
八田はペンを差し出した。僕のそんな気持ちを後押しするようなタイミングだった。どこにでもあるボールペンのはずなのに、手に取ると妙に軽かった。
書類に視線を落とすと、署名欄がある。名前を書くための空白が、僕を待っているように見える。
腕の内側は熱いのに、背中が寒く、指先が冷たい。ペン先を紙に触れさせようとすると、指がわずかに迷う。手が動くと思った瞬間に、逆に手が震え、ペン先へ伝わる。紙の上に、まだ何も書いていないのに、線が揺れる気がした。
「……」
僕は息を整えようとしたが、整わない。だから、浅い呼吸のまま書いた。
高、遠、……。
一文字ずつ、確かめるみたいに書く。いつもなら一息で書ける自分の名前がうまく書けない。書き終わる頃には、指先が少し痛かった。力が入りすぎていた。
八田はその様子を覗き込まずに、急かさず、表情も変えずに見ていた。
それが、いちばん落ち着かない。僕がペンを置くと、八田は書類を静かに引き寄せた。
「ありがとうございます。確認いたしました」
八田は書類を揃え、僕のサインの上に指先を置いた。押さえるというより、確認するみたいに。
「これで開始できます」
開始という言葉が合図に聞こえ、戻れない感じがした。
「それでは、先生、今夜はもう休まれた方がよろしいです」
八田は封筒の中から、小さな包みを取り出した。
「これをお飲みください。あとは、眠るだけで結構でございます。その後、私の方から擬似患者体験プログラムに関するレポートについて、改めてご連絡いたします」
「……はい」
僕は何が入っているのかよく分からない薬らしきものを受け取った。指先が冷たくて、包装の感触だけがやけに鮮明だった。飲まなければならないことは分かるが、普段の自分なら怪しがって触りもしないだろう。
でも、飲んでしまえば、日常になってしまった非日常から離れることができる。
水を探すのも面倒で、缶の残りを口に含んだ。苦いのか、炭酸なのか、よく分からない。
薬を飲み込んだ瞬間、胸の奥のざわつきが少しだけ遠のいた。
遠のいたのは不安じゃない。僕の意識だった。
「先生。おやすみなさい」
八田の声が、抜けていく。
部屋の輪郭が少しずつほどける。腕は熱いのに、背中は寒い。
毛布を探そうとして、手が動かなかった。
ピッ、ピッ、ピッ。
鳴っていないはずのICUの音が、遠くで鳴った気がした。
@icu_survivor
ICUや病棟で働く認定看護師。コロナ禍を経ていかにICUがどのような場所で、PICS(集中治療後症候群)ということも世間には全く知られていないかを痛感!物語を通して、ICUにどのような患者さんやご家族、医療者が関わっているのかを表現したいと意気込み小説側を執筆中。
instagram:(yukika_n_s)
急性期病棟を希望したら、新卒でICUに配属された猫かぶり看護師。日々仕事に励みながらICRN(集中治療認証看護師)を取得。ゆきかさんの作品に感銘を受け、今回漫画で参加。
instagram:(nekokaburikaya)
