ICUを小説と漫画で知ろう、学ぼう!

主人公は、麻酔科医としてICUで勤務していた。しかし、ある件をきっかけに自分が「擬似患者体験プログラム」の参加者として、ICUに入室した患者側になることに……。
擬似患者といいながら、気管挿管にリハビリや清潔ケアなどリアルなICUを患者として体験する主人公と家族、医療者に様々な想いが交差する。
同じ物語を小説版と漫画版の双方で楽しみながらICUを学べるコンテンツとして発信中!
小説は本ページで、漫画はinstagramで公開中。



第七章:キーパーソンに悩む体験

目を開けた瞬間、視界はぼやけている割に、音が先に入ってきた。

ピッ、ピッ、ピッ。

規則正しいはずの音が、やけに近いような、でも、どこか遠いような。耳の奥と天井の間に、薄い膜が一枚挟まっているみたいで、世界が少しだけ遅れて届く。
視界には、白くて波みたいな天井の模様。
いつも勤務の合間に、ほんの一瞬だけ視線を変えると自然と目に入る、見慣れている天井。少し見上げた先にあるモニターには、やたらと早い脈拍で、さらには心許ないSpO2の値が見えている。
麻酔科医で集中治療医の自分としては、心落ち着かない数値だ。誰の数値なんだ……。
左右を見ると見慣れた風景に、見慣れたスタッフ達のユニフォーム。

―――ここは、僕の勤務先のICUだ。

なのに、視界の角度がいつもと違う。天井が高くて、僕は、ベッドの上にいるようだ。
体が重くて胸が詰まり、息が浅い。喉の奥が乾いて、痛くて、唾が飲めない。体の中は熱いのに、背中や表面が寒い変な感覚。顔に触れる違和感は酸素マスクのせいだ。自分の生暖かい呼気が溜まって、快適とは言い難い。
この落ち着かないモニターの様相は、僕の数値だった。さっきまで家にいたはずなのに。ソファに沈んで、目を閉じたはずなのに……。
頭の中に、黒いスーツと抑揚の薄い声を思い出す。……擬似患者体験プログラム。
……そうだ、今は擬似患者体験プログラムの最中だ。そう結論づけられると、一瞬だけ状況が理解できて安心したものの、安心できる訳がなかった。

ICUサバイバー第7章01

―――なんで、ここで?

自分の勤務先で擬似患者体験プログラムをやるなんて、聞いていない。自分が働く病院のスタッフに迷惑もかけるし、そもそも恥ずかしい。案内人の八田に怒りが込み上げる。
でも、怒りが形になる前に、呼吸が苦しくて途切れた。
息が吸えないわけじゃない。吸っているのに、足りない。胸のどこかが狭くなっていて、空気が入っていく感覚が薄い。走ったあとのように、息を整えようとしても、全く整えられず、頭がぼうっとする。

―――こんなに、辛いのか。

擬似体験のはずなのに、身体が嘘をつかない。
痛みも、乾きも、息苦しさも、作り物じゃない。自分が医師として勤務している時に想起していた【患者さんの辛さ】を、軽々と飛び越えてくる。
口を開いて、誰かと話したかった。状況の確認をしたかったのに、声がうまく出せない。自分でも呼吸をうまく整えられず、1音発するにも音にならない。

すると、何かを察したのか看護師が近寄ってきた。
「高遠先生、わかります?」
看護師の梓川の声だった。いつもより少し低くて、少しだけゆっくりだ。仕事のテンポじゃない、患者に向ける声だ。僕は返事をしようとしたが、うまく声が出せず、ゆっくり頷いた。
「あ、よかった」
梓川の様子に、自分がいかに悪い状況でこのICUに来たのかが医療者として分かる気がした。梓川は、少しだけ身をかがめて目線を合わせる。
「驚かれますよね。私たちもびっくりしました。体調悪かったんです? 無理しないでください。高遠先生、救急搬送で来たんですよ」
救急搬送……。その言葉が頭の中で弾ける。僕は家にいて、酒を飲んで、眠った。そこから先の記憶がない。
「……そうだったんですか」
「はい、できれば唐沢先生と入野先生から今の状況をお話してもらおうかと思ってたんですけど、どうします?」
「聞きたい、です」
「分かりました。それで、高遠先生。緊急連絡先というか、キーパーソンはどなたになりますか」

……キーパーソン。よく僕たちが使う言葉だ。
大切な病状説明や治療選択の時に、患者と共に説明を受ける重要な役割。結婚しているわけでも、パートナーがいるわけでもない自分のキーパーソンは、同じ県内に住む母親になってしまう。姉もいるが、県外だし……と考えていると、梓川は言葉を変えて訪ねてきた。

「ご家族で、すぐ連絡がつく方はいらっしゃいます?」
これが本来患者に投げかけている言葉なんだろう。僕が医療者だからキーパーソンという単語を初めに使ったのかもしれない。 「キーパーソン、いないと、ダメですか」
「……そうですね。高遠先生なら病状のお話は分かると思いますけど、入院生活はある程度続くので、一緒にお話を聞いたり、ご相談する方は必要ですね」
「分かり、ました。じゃ、母で」
梓川は確認するように一度だけ頷き、連絡するために室外へ向かった。ドアが閉まると、部屋の空気が一段重くなった気がした。

さっきまでここにあったのは、誰かの体温とか、言葉の端に残る気遣いとか、そういう柔らかいものだった。人の気配が薄くなって、音だけが残る。
これまで入院するなら絶対に個室がいいと思っていたのに、いまはその「一人」が、こんなにも寂しくて不安になる。そんな自分がいることに、少し驚いた。

しばらくして、唐沢先生と入野先生が入ってきた。
見慣れた二人の顔に、単純に安心する。何度も一緒に回診をして、同じ画面を見てきた。でも次の瞬間、二人の立ち位置が違うことに気づく。僕の隣に並ぶのではなく、ベッドの脇に立っている。僕は寝たままで、二人は少し高いところから僕を見る。距離はたった数十センチの違いなだけなのに、その数十センチが急に遠く感じた。

「高遠先生、苦しいよね」
唐沢先生は、いつもの医師である僕に対する口調よりも、さらにやわらかく丁寧な声だった。その声は、僕がいつも唐沢先生の真横で患者に対してかける声なのに、今は僕にかけられている声なのだ。それが、僕が今、患者側であることを認識させる。
入野先生は僕の呼吸の動きと、モニターを一度見て淡々と話した。
「今のうちに挿管した方が、えぇと思う。さっきのレントゲンで……」 ……挿管か。
その言葉だけが頭の中に残って、続きが入ってこない。入野先生が呼吸器内科医であり集中治療医として説明してくれているのは分かる。敢えてなのか、淡々と説明をして入野先生は先に部屋から出ていった。でも、いまの僕は「挿管」という二文字の前で止まってしまっている。
気管挿管をして人工呼吸器の必要がある状況だということが、医療者として理解した気がした。僕がいつもの位置に立っていたなら、同じ言葉を口にするだろう。でも患者としての僕は、別のことを考える。
嫌だ、と言いたい。
もう少し粘れないか。薬剤も酸素投与もきっと始めたばかりだろうから、まだ何か残ってるんじゃないか。そういう希望を、患者である僕はどこかで手放したくなかった。

ICUサバイバー第7章02

「……もう、少し。ねばっちゃ、だめ、ですか」
「気持ちは分かる。でも、今の呼吸の感じだとね。厳しいかな」
「ですよね……」
唐沢先生を悩ませているのが分かった。
「お母さまには、こちらから連絡したから。割とすぐ来れるみたい。挿管の前に、一度お顔を見て話したらどうかな」
…あ、挿管前にご家族と話を…ってやつだ。
もちろん、全力で治療をして元の生活に戻ることを目指す。僕たちはいつもそうしてきた。
でも、気管挿管をしてしまうと、患者の声は奪われる。苦しいから助けるための処置なのに、その瞬間から、声を使った「話す」という行為はできなくなる。場合によっては、治療が思うように効かず、そのまま亡くなる人だっている。
だからこそ、少しでも時間の猶予があるなら、挿管の前に、患者さんが大切にしている人と話す時間を作る。言い残したいことがあるかもしれない。聞いておきたいことがあるかもしれない。たとえ言葉にならなくても、顔を見るだけで伝わるものがある。 まさか自分が、その「時間を与えられる側」になるとは思わなかった。

そして遅れて、母への申し訳なさが胸の中に満ちてくる。
僕の父は小学生の頃に癌で亡くなっていて、姉は県外に住んでいる。僕は独身で、母のことが心配で地元に戻ったのに、結局、負担をかける側に回ってしまった。

「……すみません」
謝罪は反射で出た。
「謝ることじゃないよ、大丈夫」
唐沢先生が僕を安心させるかのように微笑んだ。

「失礼します。ご家族、来られて。先に入野先生が簡単に状況はご説明してくれました。面会、いいですか?」
「どうぞ。入っていただいて。私は一旦出ます」
看護師と唐沢先生の声が響いた。その声は穏やかなはずなのに、僕の中では何かの合図のように、小さな鈴みたいに鳴って、余韻だけが残る。
『挿管の前に、一度お顔を見て』という、唐沢先生が言った言葉が、遅れて形になる。ベッドサイドの外側で、人が動く気配がする。

「大智……」

母の僕を見るはずの目が、僕の周りの機械やモニターを見て、床を見て、また僕を見る。笑おうとしているのに、笑いきれていない。口元だけが先に動いて、目が追いつかないようだ。
僕は返事をしようとして、喉の奥が痛くて、言葉が引っかかった。酸素マスクの中で息が擦れて、声にならない。母は僕の返事を待つ代わりに、急いで言葉を重ねた。

「……大丈夫? いつ帰れるの。すぐ、帰れる?」
帰る、という言葉は、いまの僕には遠い。それでも、話にくい僕の会話の間を埋めるように母は話し続ける。
「苦しいの? ごはんは……食べられるの?」
どの質問もいつもの当たり前の日常で行なっている生活だ。
それが、今の僕には遥か高い理想にみえる。帰ることも食べることもできるわけがないだろう、先生たちから僕の状況聞いているはずなのに……という気持ちもあったが、わざわざ来てくれた母に投げる言葉ではないと感じる。
「ちょっと、厳しいかな。まぁ、だい……じょうぶ」
音になりきらない声が、マスクの中で消える。それでも母は聞き取った顔をして、目を潤ませて、すぐ笑おうとした。
「そうだよね。大智は昔から、大丈夫って言う子だもんね」
そう言われると、笑えなくなる。大丈夫と言うしかないだけだ。大丈夫と言うと、それが本当になる気がするから。

ICUサバイバー第7章03

そのとき、頭の中に別の光景が浮かんだ。
病状説明のあと、廊下の端で看護師が主治医に言う。
「ご家族、理解が追いついていないみたいです。もう一度、説明お願いします」
医師は疲れた顔で同じ言葉を繰り返し、家族は医師が話す言葉とはずれた、生活に関する質問が続く。僕はその様子をこれまでに見たり聞いたりしてきた。
いま僕は、説明される側で、母は理解が追いつかない側で、そして看護師はその間を静かに調整している。

母は僕の顔を一瞬見て、その後には泣かないようにしているのだろうか、言葉は落としたが目線は上にあげた。
「なんか……できることある?」
その一言で、母の強がりが剥がれた気がした。母は、肝っ玉かあちゃんの代表みたいな人で、こんなふうに動揺するなんて。 改めて、家族に心配をかけていることを実感した。
「……だい……じょうぶ」
医療者の僕は差し迫る状況と分かるからこそ、余計な言葉を母に伝えないことを選んだ。
「うん。大丈夫だよね。あんた、頑張ってるもんね」

そのとき、ベッドサイドの外側から丁寧な声が入った。
「失礼します。お時間、よろしいですか」
会話にならない会話を区切るための合図だった。
母の肩が小さく跳ね、何か言おうとしたようにも見えたが、言葉を見つけられないまま、無理に笑ったようにみえた。
「あとで、また来るからね」
僕は頷く代わりに、まぶたを一度だけ強く閉じた。

ピッ、ピッ、ピッ。

音だけが、僕の代わりに返事をしているみたいだった。



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@icu_survivor




小説:ゆきか
ICUや病棟で働く認定看護師。コロナ禍を経ていかにICUがどのような場所で、PICS(集中治療後症候群)ということも世間には全く知られていないかを痛感!物語を通して、ICUにどのような患者さんやご家族、医療者が関わっているのかを表現したいと意気込み小説側を執筆中。
instagram:(yukika_n_s




漫画:花宮カヤ
急性期病棟を希望したら、新卒でICUに配属された猫かぶり看護師。日々仕事に励みながらICRN(集中治療認証看護師)を取得。ゆきかさんの作品に感銘を受け、今回漫画で参加。
instagram:(nekokaburikaya