主人公は、麻酔科医としてICUで勤務していた。しかし、ある件をきっかけに自分が「擬似患者体験プログラム」の参加者として、ICUに入室した患者側になることに……。
擬似患者といいながら、気管挿管にリハビリや清潔ケアなどリアルなICUを患者として体験する主人公と家族、医療者に様々な想いが交差する。
同じ物語を小説版と漫画版の双方で楽しみながらICUを学べるコンテンツとして発信中!
小説は本ページで、漫画はinstagramで公開中。
第八章:気管挿管の体験
息が、入ってこないわけじゃない。
入ってはきて、胸は動く。酸素マスクの内側で空気は循環しているのに、足りない。その足りなさだけが、はっきりしているみたいだ。
息を整えようとするほど、息が乱れる。苦しい、という言葉が遅れて追いついてくる。
ベッドサイドの外側は、準備の気配が濃くなっているようだった。
スタッフの声が短くなり、動きが速くなる。手袋を箱から出す音や、物品同士のあたる音が増える。挿管チューブの包装が開く音、マックグラスのカチっとはまる小さな音。僕がいつも聞き流していた音が、ひとつひとつ輪郭を持って耳に刺さる。
「準備していくので、ちょっと騒がしくてすいません」
看護師の誰かが患者である僕へ丁寧に言いながら、人工呼吸器を設置している。多分、なるべく早く準備をして挿管することを念頭に置いているのに、患者さんの不安を増さないように配慮してくれているのを感じた。それなのに、これが、もう戻れない合図みたいに感じてしまった。
僕はいつも麻酔科医だから、準備する側だった。
準備される側になると、時間の流れ方が変わる気がした。視界の端に、見慣れた人の影がいくつも動く。
ベッドの脇に安曇がいることに気づく。
同期の麻酔科医。生意気な態度だから腹は立つけど優秀で、素早くて無駄がなくて、手技の手つきに迷いがない。僕はそれを何度も見てきた。見てきたからこそ、医師としての僕は安心するはずなのに、患者としての僕の心は落ちつかない。
「まさか、高遠に挿管する日が来るとは思ってなかったけど。まぁ……、大丈夫!この私に任せなさいっ!」
「……おー、頼むわ」
「やだ、なに?珍しく素直じゃん、調子狂うんだけど。この私がさーっと挿管するから、早く治して復帰してよね。じゃないと、あんたの仕事、私がぜーんぶとっちゃうから。のんびりしてると同期なんて思えないくらい、先に実力つけちゃうから」
相槌を打つのも大変な僕の呼吸と不安を察しているのか、安曇から珍しく気遣っているように足早な言葉が次々と出る。安曇は話ながら、僕のいるベッドの頭側に移動して、物品やベッドの高さをチェックしている。ただ、準備を進めているだけではなくて、心なしか僕の方を見ない気がする。……それもそうか、僕だってもし逆の立場で安曇に挿管するとなったら、複雑な気持ちにもなるか。
その近くには唐沢先生が立っている。
全体を監督し、患者を守る目だ。この目だって、いつも僕は同じ医療者として横で見て安心する目だったのに、今は守られる側か。
「高遠先生、大丈夫だからね。挿管したら気管支鏡やってもらって培養出しちゃうからね」
話している内容は医師として理解できる。分かるのに、唐沢先生の声の温度と表情は、僕がいつも横で見ていた患者さんに向ける所作だった。その事実が、僕を患者にする。
さらに遠くで、入野先生が準備をしている。
気管支鏡をやる段取りが見える。いつもなら、僕ら麻酔科医が挿管した後に一緒に気管支鏡の画面を見るのに。レントゲンでも見るけれど、気管支鏡の最後には挿管チューブの位置も再確認して、『位置もえぇな。培養出しといて。終わりー、おつかれさんでした』と患者に声をかける流れだ。きっとこの後、患者である僕にも同じ流れが行われるのだろう。
看護師は望月が入っていた。
望月の声は落ち着きつつも、励まそう、不安にさせないように……という様子をとても感じた。
「先生、この後も我慢しないでくださいよ。明日から早く抜管目指して一緒に頑張りましょうね?」
しっかり僕の目を見て声をかけながらも、ベッドサイドで鎮静や鎮痛に使う薬剤に、ショット用の点滴ルートの準備などを確実に行っている。望月も看護師ではあるが、入職の同期であり、前から彼の成長を見てきた。初めて挿管の介助を見学する時は、先輩看護師から指導されながら緊張していたのに、今は着実に確実に、一つずつ前に準備を進めていく。その両立が、積み上げてきた経験だと感じる。
ほぼ全ての準備が揃ってきたことを、空気で感じる。これは、僕が医療者だから感じる空気なのか、患者であっても感じる空気なのかは分からない。
そう思っていると、モニターの音階が変わった。酸素の音階になっている。
心電図の同期音から、SpO2の同期音に変わったのだ。
音階が低くなればなるほど、SpO2の値は低くなっていく。
麻酔科医の安曇がそう切り替えたのだろう、酸素化の変化を耳でも拾うためだ。僕もよくやっていた。もちろん、モニターのバイタルサインを読み上げるスタッフはいるけれど、自分自身でも五感を駆使して、迅速に安全に挿管する。
麻酔科医にとって、挿管の一連の流れのなかで、確実に挿管でき手でジャクソンリースを揉み換気する手応えと共に、呼気であるETCO2の波形を見て、SpO2の音階が下がらずに一定のリズムを刻むまでの感覚は、表現し難い緊張と高揚が折混ざるように感じる。そこで音階が下がろうものなら、さらに神経を研ぎ澄ましてリトライするか、一旦仕切り直すかを考える。
でも今は、僕は患者だから、音階が低くなろうとも何もできないのだ。それが自分の数分先の未来だったら……、そもそも挿管したとしても目覚めなかったら……頭の中の音はやまずにやかましい。
「よし。じゃ、マスク当てますね」
安曇が僕の頭上でマスクを顔にあてる。安曇が僕に敬語なんて使うことは、これまでなかったのに。……やっぱり僕はもう患者なのだと再確認した。
ゴムの感触が頬に食い込んで、空気の匂いが変わる。酸素の匂いというより、ゴムとプラスチックの匂いだ。僕はその匂いをよく知っている。知っているから、余計に怖い。
「ゆっくり、呼吸しますよ」
安曇の声がすぐ近くにある。いつもより低い、冗談の混じらない声だ。同期の声なのに、手技の声だった。
ゆっくり……言葉では簡単なのに、できない。吸っているのに足りないから、吸いたくなる。吸いたくなるから、余計に乱れる。自分の呼吸が自分のものじゃなくなる。
安曇の換気は安定していて問題はないことは、医師の僕は分かっている。酸素は入っているし、次の手順も、頭の中では見えている。でも患者の僕は、落ち着かない。
「お薬入れていきますからね。……プロポフォール、3mlをIVして5ml/hで開始してください」
「はい」
麻酔科医の安曇が僕にかける声と、薬剤を調整している看護師の望月への声色が違った。望月の返事も、響くように聞こえた。
プロポフォールと聞いたからなのか、腕の内側に意識が吸い寄せられた。点滴ルートのあたりが、じんわり熱い。薬が入ってくる様子を、僕は何度も見てきたはずなのに、入ってきたことは初めてだ。
「眠くなりますからね」
僕は頷いたつもりだった。
頷く動作ができたかどうか、自信がない。喉の奥が乾いていて、うまく呼吸ができているのかを確認するまでもなく、目をあけていられなくなった。
閉じたまぶたの裏に、音が鳴る。
ピッ、ピッ、ピッ……
1音ずつ低くなることを感じた。
―――
目を開けた。……いや、開けたつもりだった。
視界が白く見えたような気がしたけれど、よく見ると、明るかった。視界がぼやけているから、しっかり目の前を見たいのに、まぶたが勝手に落ちる。落ちて、また開く。点滅というより、浮き沈みだ。
喉に違和感もある。
何かが刺さっている、というより、通っている感覚。硬いものが、喉の奥を占領していて、そこに呼吸が当たるたび、擦れるけれど、息は、入ってくる。
息が入ってくるのに、自分で入れていない変な感覚がある。胸がふくらむタイミングが、自分の意思より少し早い気がして、吸う前に吸わされる。吐く前に吐かされる。
声はもちろん出るはずがない、喉に気管チューブがあるからと分かっているのに、身体は反射で声を探す。探して、咳になりかけて、途中で止まる。
ピッ、ピッ、ピッ。
と聞こえるあの音はまだここにある。音階がさっきより高い気がする。
「……培養だしておいて。おつかれさんでした」
入野先生の声……?
ということは、気管支鏡は終わったのだろうか。終わって、培養を出して、次の段取りへ進んでいる。医療者としては自然な流れだ。いつも通りの流れ。
続けて、誰かが近くで何かを確認している。
数値を読み上げる声や、人工呼吸器の設定の話。鎮静の話も断片的に耳に入るのに、意味をつなげる余裕がない。言葉が、バラバラのまま落ちてくる感覚だ。さまざまな単語が、自分の頭の上を通り過ぎていく。
そう思っていると、モニターの音が一段低くなった気がした。気づいた瞬間、次の呼吸を探す前に、喉が勝手に反射した。
「っ……」
咳が出る、出てほしくないのに出る。身体が大きく跳ねて、空気が外へ押し出される。押し出されたぶんだけ、次が入ってこない。苦しくて怖い、音がざらつく……辛い。
―――その様子を看護師である梓川は、音で先にキャッチした。
SpO2同期の音が、ひとつだけ濁る感覚は、モニターで数値を見るより早い。呼吸が乱れる前の、あの嫌な感覚だ。
次の瞬間、患者である高遠の咳が来た。どうしても、身体が勝手に跳ねてしまうように身体の奥から込み上げる咳だ。胸郭が大きく動いて人工呼吸器の押し込みと本人のタイミングがずれていく。呼吸の音がざらついたように感じる。
気管吸引が必要だが、すぐ吸引カテーテルを気管挿管チューブに入れることはしない。梓川は手指消毒をして手袋をする流れで、1〜2呼吸ぶんだけ待った。激しい咳が今まさに出ている最中に、さらに誘発するように吸引カテーテルを入れることは、余計な刺激となり苦痛が増すだけだ。
手袋をしながら、吸引の必要性を五感を使って観察し、アセスメントする。この咳は、痰が出せない咳だ。痰が絡んでいるのに、出せずに苦しい咳だ。患者の胸郭に手をあてると、まさに気管部分に痰の震えを感じる。
「口のチューブから痰を取りますね。咳が出ます、すみません」
挿管チューブを口のチューブなんて言い換えなくても、麻酔科医である高遠先生は分かるとは思うけれど、癖なのか、まだしっかり覚醒していない患者に向けた言葉なのか、自分でも分からないままに勝手に言葉は出てきた。
返事は返ってこない前提だけれど、返事がなくても置き去りにしないように対応する。
吸引は手順としては単純であり、かなり頻度の高い手技だ。だからこそ、盲目的に、ルーチンに行われがちだと日々感じる。
でも、患者さんの中では単純でルーチンの作業ではない。喉の奥に異物が入る恐怖、咳で身体が跳ねる怖さ、息が乱れて酸素が足りなくなる感覚。たかが吸引、と言えるのは外側にいる人だけだと梓川はよく感じている。
高遠の目を見ると、うっすら開いているような閉じているような。焦点が合っているような感じはしない。起きているのか、鎮静されているのかの境界にいるように見えた。それでも、言葉が出ない患者さんの、嫌だ・辛いという苦痛は、目の開き方と眉間の力みで伝わってくる。
カテーテルを進め、痰の手応え。無事、痰は取れ跳ね上がっていた動きは治った。
「今、痰取れましたからね。辛かったですね、これで落ち着きますのでね」
人工呼吸器の波形、胸郭の動き、表情、体の動き、モニターの画面、回路の屈曲や水の溜まり……梓川の目は、苦痛の原因を1つでも残さないよう次々に狙いを定めて視点が動く。回路や挿管チューブの位置が、さらなる咳を誘発しそうにも見えたが、少し整うまで敢えて待った。
次々に刺激を与えることは、苦痛の連続になるからだ。
これは梓川の個人的なこだわりというか、先入観かもしれないが、急性期というか、ICUというか、こういう場所にいる医療者は待つことを避けがちだと感じる。早く解決したいのか、待つことが不安なのか。何事においても待たない。待つ前に動き、動いている間だけ安心しているように見える。
梓川もこの領域に長くいるために、スピードが必要な場面があることも、迷っている時間が患者を苦しめることも分かっている。でも、待てる場面まで待たないのは違う、といつも思ってしまう。
創意工夫は、派手な新しい道具ではなく、小さな選択の積み重ねだ。たかが吸引、と外側は言う。でも内側では、たった数秒が永遠みたいに長い。だから梓川は、永遠を少しでも短くする工夫をする。
同じ医療者に対しても、患者に対しても、ご家族に対しても、待つことと聞くことは、ケアの一部として扱ってきた。待てば、音が変わり表情が変わる。言葉が出ない人の「嫌だ」も「助けて」も、ほんの少しだけ見えやすくなる。その、見えやすくなる一瞬を作るのが、梓川の創意工夫だった。
@icu_survivor
ICUや病棟で働く認定看護師。コロナ禍を経ていかにICUがどのような場所で、PICS(集中治療後症候群)ということも世間には全く知られていないかを痛感!物語を通して、ICUにどのような患者さんやご家族、医療者が関わっているのかを表現したいと意気込み小説側を執筆中。
instagram:(yukika_n_s)
急性期病棟を希望したら、新卒でICUに配属された猫かぶり看護師。日々仕事に励みながらICRN(集中治療認証看護師)を取得。ゆきかさんの作品に感銘を受け、今回漫画で参加。
instagram:(nekokaburikaya)
