主人公は、麻酔科医としてICUで勤務していた。しかし、ある件をきっかけに自分が「擬似患者体験プログラム」の参加者として、ICUに入室した患者側になることに……。
擬似患者といいながら、気管挿管にリハビリや清潔ケアなどリアルなICUを患者として体験する主人公と家族、医療者に様々な想いが交差する。
同じ物語を小説版と漫画版の双方で楽しみながらICUを学べるコンテンツとして発信中!
小説は本ページで、漫画はinstagramで公開中。
第九章:喉の痛みと口渇が伝わる体験
挿管されてから、どれくらい時間が経ったのか分からない。
数時間なのか、一日以上なのか。目を閉じて、開けて、また閉じる。その繰り返しのどこまでが眠っていた時間で、どこからが起きていた時間なのかも曖昧だった。
気づくと、ベッドの横に母がいた。
「大智、分かる?」
……分かる。
そう返したいのに、声は出ない。喉には気管挿管チューブが通っている。僕は母の顔を見て、できるだけ大きく目を開いた。
ただ、医療者としての僕は、以前からこの問いかけが気になっていた。
鎮静を浅くしたとき、スタッフが患者さんに「分かりますか」と声をかける場面をよく見る。けれど、一体、何が分かるのだろう。緊急手術になった患者さんの中には、術前から意識がなかった人もいる。今いる場所も、何が起きたのかも分からないのに、なぜかみんな「分かりますか」と聞く。
僕は今、患者ではあるけれど。麻酔科医としての経験があるから、必死になって周囲の状況をつなぎ合わせようとしている。それでも、時間の感覚すら曖昧だ。これが僕でなければ、混乱したり、パニックになったりしてもおかしくないぞ?と周囲に言いたいくらいだ。
それなのに、医療者ではない母まで「分かる?」と聞く。
意識のなかった人が目を覚ましたときにかける言葉として、これは王道なのかもしれない。
母は少し身を乗り出し、僕の顔をじっと見た。
「昨日より、ちょっと顔色よくなったんじゃない?」
……昨日。
その言葉を聞いて、少なくとも一日以上は経っているらしいと知った。僕の中には、昨日がない。目を閉じたあと、時間だけが勝手に先へ進んでいたようだ。
母は、僕の返事を待つようにしばらく黙っていた。僕は眉を少し上げたつもりだった。うなずいてみたけれど、頭が実際に自分が思うほどには動いていないことを感じた。
それでも、母には通じたらしい。
「うん、昨日よりいい顔してる。昨日はもう、あんた、ひどい顔してたから」
ひどい顔と言われても、自分では見ていない。
患者になってから、自分の顔色を他人の言葉で知ることが増えた。
もともと入念に鏡を見るタイプではなかったけれど、それでも朝、顔を洗えば鏡を見ていたし、出勤途中にはガラスに映った自分の寝癖に気づくこともあった。
今は、自分がどんな顔をしているのかすら、分からない。
「先生たちも看護師さんたちも、ちゃんとみてくれてるから。あんたは余計なこと考えないで、寝てなさい」
余計なことを考えないで、と言われても。……考える以外にできることがない。
そう言い返したかったけれど、当然、声にはならなかった。母は僕の表情を見て、少しだけ笑った。
「……何、その顔。文句あるなら、元気になってから言いなさい」
こういうところは、いつもの母だった。
僕はもう一度、目を少し大きく開いた。母はそれを返事として受け取ったらしく、満足そうにうなずいた。
「じゃあ、また来るから。先生たちの言うこと、ちゃんと聞くんだよ。自分が医者だからって、偉そうにしないことね」
……できるものなら、偉そうにしてみたい。今の僕は、声も出せず、指一本まともに動かせない。
母は最後にもう一度、僕の顔を確かめるように見てから、看護師に頭を下げた。そして、入ってきたときより少し軽い足取りで部屋を出ていった気がした。
その後ろ姿を見送りながら、僕はほっとしていた。母が落ち着いて帰れたことに、僕も安心していた。
ドアの向こうに母の姿が消えると、ベッドの周りは急に静かになった
すると、今まで感じてはいたものの、母に心配をかけないように我慢していた違和感が、急にはっきりしてきた。
何もしていなくても、喉に違和感がある。
息をしても、口を少し動かしてみても、喉の奥に堂々と居座る挿管チューブの圧迫感は消えない。チューブが粘膜に擦れる、何とも言えない感覚が続き、それが次第に痛みとして輪郭を持ち始めた。
ただ、これくらいの痛みは普通なのかもしれない。
麻酔科医として働いているときは、相手の痛みを自分では感じられないからこそ、痛みがあるなら積極的に取り除こうと思っていた。それなのに、いざ自分が患者になると、これくらいの痛みでスタッフを困らせてもいいものか、と迷ってしまう。
医療者である僕と、患者である僕。二つの気持ちが、喉の奥で向かい合っていた。
そんなことを考えているうちに、足元のパソコンの前にいた看護師が、いつの間にかベッドのそばまで来ていた。
「喉、痛いですか?」
僕の顔を覗き込んでいる。正直、驚いた。
今、僕は声を出していない。いや、挿管中なのだから、そもそも声は出ないのだけれど。
ナースコールも押していなければ、手を挙げてもいない。それなのに、この人は、僕のわずかな表情と動きだけで痛みにたどり着いた。
僕はもともと、そこまで表情が豊かな方ではない。
嬉しくても、驚いても、顔に出にくいと昔からよく言われてきた。母なら、ほんの少し眉が動いただけでも、機嫌が悪いのか、困っているのかくらいは分かるかもしれない。長年一緒にいた家族には、それなりに読み取れるものがあるのだろう。
でも、看護師は家族ではない。
僕が普段どんな顔をするのかも、痛いときにどんな癖が出るのかも知らないはずだ。
まして今は、鎮静剤類の影響も残っているだろう。眉をひそめたつもりでも、実際にどこまで動いているのか、自分でも分からない。
それでも、看護師は気づいた。
僕が何度も唾液を飲み込もうとしていること。けれど、痛みのために喉元がうまく動いていないこと。そのたびに眉間へわずかに力が入り、呼吸に合わせて目を細め、ほんの少しだけ首を逃がそうとしていること。
どれも、自分にしか分からない程度の変化だと思っていた。
僕は、できるだけはっきりとうなずいた。それでも、申し訳なさは拭えなかった。
看護師は僕の反応を確認すると、点滴の方へ目を向け、続けて人工呼吸器やモニターを見て、また僕の顔をみた。
きっと一瞬で全ての必要な観察をしたのだろう。
「我慢しないでくださいね。申し訳ないなんて思わなくて大丈夫です。痛みは取りましょう、相談してきますね」
そう言って、医師へ声をかけるために離れていった。
その表情と声には、任せてください、とでもいうような迷いのなさがあった。
僕は、それだけで少し安心した。
看護師が医師へ声をかけに行く後ろ姿を見ながら、僕は、自分が麻酔科医としてずっと大事にしてきたことを思い出していた。
痛みは、取れるなら取るべきだ。
ICUではさまざまな処置が日常的に行われている。医師達だって、同じように日々違う患者に同じ処置を繰り返し行なっている。だから、慣れというものが存在しているのかもしれない。
明らかに患者さんが痛がっているのに、鎮痛薬を使わなかったり、不足していたり、「少し我慢してください」で済ませようとする医療者を見ることは多々あった。そんな場面に出くわすたび、同じ医療者なのに、どうしてそんなことができるのかと苛立った。
痛みは目に見えない。だからこそ、訴えがあるなら拾うべきだと思っていた。
もちろん、薬剤には不利益もあるし、呼吸や循環への影響も考えなければならない。けれど、それを理由に最初から何もしないのは違う。何が使えて、どこまで調整できるのかを考えるのが、特にICUに携わる医療者にとっては重要だと、僕はずっと思ってきた。
ただ、周囲を見ているうちに、自分の方が痛みにこだわりすぎているのではないかと思うこともあった。
痛みは取るものだ、我慢させるものではない。
その考えが自分の中で強すぎて、ある種の思想みたいになっているのかもしれない。みんながそこまで気にしていないのなら、むしろ僕の方がおかしいのではないか。そう思ったことすらあった。
しばらくすると、看護師が戻ってきた。
「先生と相談して、痛み止めを少し調整しますね。少しすれば和らぐかなと思いますけど、変わらなかったら、また我慢せず呼んでくださいね」
看護師は、僕の手に握らされているナースコールを押す真似をしながら伝えた。『また』我慢せず……ということは、我慢していたのは早々に気づかれていたのかもしれない。
そして、看護師はシリンジポンプや点滴のルートを確認し、薬剤を調整する。僕はその動きを目で追った。普段なら、投与量や身体への影響を考える側にいる。今は、自分の身体に薬が効いてくることを待つ側だった。
すぐに痛みが消えたわけではない。
けれど、しばらくすると、喉の奥に痛みとして居座っていた輪郭が、少しずつぼやけていった。チューブの存在は消えない。それでも、息をするたびに突き刺さっていた痛みが、圧迫感と異物感の中へ引いていく。
痛みが和らぐと、不思議なくらい気持ちも落ち着いてきた。
さっきまで、喉のことしか考えられなかった。呼吸も、周囲の音も、誰かの声も、すべてが痛みや違和感の向こう側にあった。それが少しずつ戻ってくる。
僕がこれまでやってきたことは、間違っていなかった。
痛みを取ろうとしてきたことも、我慢させる医療に苛立ってきたことも。少なくとも、患者である今の僕には、その考えが正しかったと分かる。医師として積み重ねてきたものを、患者になった自分の身体で答え合わせしているような気がした。
痛みが和らいだことで、そのまま眠っていたのだろうか。
次に目を開けたとき、喉の痛みよりも先に、口の中の乾きが気になった。
唇が張りついている。舌を動かすと、上顎に吸いつくような感覚がした。唾液はほとんどなく、口の中全体が乾いている。さっきまで痛みに隠れていたものが、今度は前へ出てきたみたいだった。
……水が飲みたい。
飲めないことは、重々承知している。挿管中の患者に、構造上はいどうぞと水を渡せるはずがない。多分、医療者でない患者よりも僕は重々承知しているはずなのに、それでも、水が飲みたいと思ってしまう。医学的に無理だと分かっていることと、身体が求めることは、どうやら別らしい。
そんなことを考えていると、同期入職の看護師である望月がやってきた。
僕の挿管に入っていたときは、薬剤や点滴ルートを着実に準備しながら、こちらの不安にも声をかけてくれていた。あのときは随分と頼もしく見えた。今は少し心配そうな顔をしている。けれど、心配を見せに来たというより、励ましに来たような雰囲気だった。
「高遠先生、起きてます?」
起きている、僕は目を少し大きく開けた。
望月になら、少しくらい要望を伝えやすい。同期だし、普段から割と仲は良いし、話もよくしている。少なくとも、知らないスタッフへ一から訴えるよりは伝わるはずだ。
喉が渇いた、それだけ伝えたい。
僕は右手を持ち上げようとしたが、思っていたより重く、肘はほとんど動かなかった。それでも何とか指先を喉元へ向ける。その動きに望月はすぐに気づき、こちらを見た。
「あ、喉、痛いんです? 大丈夫!? 無理よくないっすよ、任せてください。ちょっと薬調整するように言ってきますわ!」
違う、待て待て。話を聞いてくれ。僕は首を振った。振ったつもりだったけれど、実際には枕の上でほんの少し揺れただけかもしれない。
「……あ、違うか」
もう一度、喉を指さす。望月は僕の指先と顔を交互に見た。
「あ、自分ってこと? 高遠先生のこと? 何、何か言いたいことあるんです?」
そうだ。僕のことだ。
「あ、まさか、ICUの先生たちの控室に何か変なものでも隠してるんじゃないでしょうね。それ、俺に片づけさせたいんでしょ?」
待て、待て、待て。
決してそんなものは隠していないし、隠すなら自宅に……いや、そういう話でもなくて。
まぁ、僕の喉が渇いた話だから、自分のことで間違いではないんだけど、でも、違う。
僕はまた首を振った。どうすれば伝わんだろう。さっきは何も言わなくても伝わっていたのに。
少し動きを止めて考えると、看護師たちが、挿管された患者さんの口をスポンジで拭っている場面を思い出した。先端にスポンジのついた棒をしめらせて、口の中で動かす、あれだ。
僕は指先で、棒を持って口の中を拭う動きをしてみた。
望月の眉が寄った。
「ん? 回す? 何を回すんです?」
僕はもう一度、口元で指を動かした。右へ、左へ。口の中を拭うつもりで。
「歯磨き? 歯磨きします?」
近い、かなり近い。でも今、歯を磨いてほしいわけではない。なかなか伝わらない。
たった、1つ。喉が渇いた、それだけなのに。望月も少し困った顔をしたあと、すぐに思いついたように言った。
「あ、じゃ、書きます? ちょっと待ってください」
紙とペンが用意された。これなら伝わる。字を書くことくらいできる。望月が僕の手にペンを握らせ、紙を支えてくれた。
喉が渇いた。
まず、「の」と書こうとした。
ペン先を紙につけ、少し引き、弧を描く……はずだった。
けれど、指に、手に、力が入らない。書き始めと弧の部分が離れ、途中で線が震えた。自分でも何を書いたのか分からない、潰れた丸のようなものが紙の上に残った。
望月が紙を見る、僕も見る。二人で、しばらく見る。
「……これ、何て書きました?」
僕が聞きたい。「の」の一文字すら書けていない。どうして、こんなにも伝わらないのだろう。
……喉が渇いた。
たったそれだけの一言が、声を失い、手に力が入らなくなっただけで、こんなに遠くなるとは思わなかった。
そこへ、先ほどの担当看護師が戻ってきた。
僕の手には、まだペンが握られている。紙の上には、「の」になるはずだった正体不明の線が残っていた。望月はその紙と僕の顔を交互に見ながら、完全に行き詰まっている。
「望月さん、対応してくれてたんだね。ありがとう、どうしたの? 何かあった?」
「いや、高遠先生が何か言いたいみたいなんですけど、全然分からなくて。喉を指さしたり、こう、口の前で何か回したりしてて。筆談してもらおうと思ったんですけど……」
望月が紙を見せた。
担当看護師は一度だけその線を見て、それから僕の顔と口元へ視線を移した。
「……喉、渇きましたか?」
僕は、できる限り大きくうなずいた。それだ、それだけだ。
「えっ、喉渇いたんですか」
望月が僕を驚いたように見る。
「もう、言ってくださいよー」
言えるものなら、とっくに言っている。僕が目を細めると、望月は自分で気づいたらしい。
「あ、すみません。言えなかったですね」
担当看護師が小さく笑った。
「望月さんは、高遠先生を……ちゃんと高遠先生として見てるんだね」
「え?」
「普段から知ってる先生だし、2人とも仲良いから。日頃の日常会話的なものを話したり、もしかしたらもっと難しいことを伝えようとしてるって思ったんでしょ」
望月は、少し険しい顔で手元の文字になりえない線を見た。それを見ると、今の僕は「の」の一文字さえ完成させられない状態ということを実感する。
「……確かに。いつもの気兼ねない話とか、人工呼吸器の設定とか、薬のこととか話すこともあるから、そういうこと言いたいのかと思ってました」
そんな高度な相談をする余裕は、今の僕にはない。僕が求めていたのは、ただの水分だった。
担当看護師は、口腔ケアの物品を準備しながら言った。
「私は、高遠先生ではあるけど、挿管されている患者さんとしても見てるから。口を動かして、喉を指して、ずっとこっちを見ていたら、まず口渇かなって思う」
「なるほど……」
「もちろん、一人の人として見ることも大事だし、普段どんな人なのかを知るのは、とても大事。でも、今その人がどんな状態にいて、何に困りやすいかを視点を変えて見ることも必要なんだよ」
望月は、僕と担当看護師を見比べた。
「僕、高遠先生なら、もっと分かりやすく伝えてくれると思ってました」
ずいぶん勝手な期待だ。今の僕は、喉が渇いたことすら伝えられず、「の」に敗北した男だった。そんなこと、無理に決まっている。
担当看護師が僕の表情を見て、少し笑う。
「高遠先生、今、それは無理って思いました?」
僕はうなずいた。今度のうなずきは、二人にはっきり伝わった。
二人のやり取りを聞きながら、僕は少し不思議な気持ちになっていた。
望月は、少なくとも看護師のなかで1番よく話す仲であり、仕事終わりに食事にもいくくらい、普段の僕を知っている。医師として話し、冗談を言い、ときには医療の相談もする、高遠大智としての僕を見ていた。だから、今の僕も何か複雑なことを伝えようとしていると思ったのだろう。
一方で、担当看護師は今の僕を、挿管されて声が出せず、身体も思うように動かせない患者として見ていた。だから、喉を指し、口を動かし、視線を送り続ける僕を見て、まず口渇にたどり着いた。
どちらかが間違っているわけではない。
普段の僕を知っていることも、一人の人として接してもらえることも、ありがたい。患者になったからといって、それまでの僕が消えるわけではない。
けれど、今の僕には、医師としての知識も、普段の関係性も、伝えるための力にはならなかった。
患者として置かれている状況を知らなければ、その単純な訴えにすらたどり着けないことがある。
人として見ることと、患者として見ること。
その二つは反対ではなく、どちらか一方だけでも足りないのだろう。普段の僕を知りながら、今の僕が何に困っているのかを考えてもらう。その両方が重なって、初めて届くものがあるのだろう。
さっきまで、『どうして伝わらないんだ』と苛立ちかけていた。
でも、伝える方法を失った僕と、僕の意図を探していた望月との間には、正解のない距離があっただけなのかもしれない。
そして、その距離を埋めたのは、特別な機械でも難しい技術でもなく、今、この患者は何に困っているのだろうという視点だったようだ。
@icu_survivor
ICUや病棟で働く認定看護師。コロナ禍を経ていかにICUがどのような場所で、PICS(集中治療後症候群)ということも世間には全く知られていないかを痛感!物語を通して、ICUにどのような患者さんやご家族、医療者が関わっているのかを表現したいと意気込み小説側を執筆中。
instagram:(yukika_n_s)
急性期病棟を希望したら、新卒でICUに配属された猫かぶり看護師。日々仕事に励みながらICRN(集中治療認証看護師)を取得。ゆきかさんの作品に感銘を受け、今回漫画で参加。
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