「普通」であることに、子どものころから、そして23歳になったいまでも憧れがある。発達障害の特性を「才能」と周囲に評価されながらも「才能を生かせるか殺されるか」の感覚で自身と向き合ってきた日々。今回は、不登校から皆勤賞を達成し、勉強でもクラストップ、生徒会長まで務めて人生を転換させて、目指していた看護師になるまで、何がまめこさんを突き動かしていたのか、というお話です。ここにもまた、発達障害の特性が影響していました。
理解できないだろう私の疲れやすさ
感覚過敏ゆえ、身体で感じる刺激や頭に入ってくる情報が多過ぎて、ただ生きているだけで疲れます。
この疲れやすさは周りからは理解されません。みんな自分が見えている世界、感じていることが「普通」と考えているからです。
私もこの状態が「普通」だとずっと思ってきました。
中学生のときは、周りが昼休みの時間に友だちと話したり遊んだりしているなか、私は椅子を並べて横になって寝ていました。「みんな元気があってすごいな〜。私は部活と授業で精いっぱいだ」と感じ、午後の授業と部活に備えて休息を取っていました。中学の3年間で休み時間に友だちと話したり遊んだりできたのは、テスト明けか午後が集会のときだけでした。
高校生になると家から学校まで1時間半かかっていたので、登下校だけで疲れていました。放課後、周りが遊びに行ったりバイトをしたりするなか、私は家に直帰です。
専攻科生(看護高校の4年目・5年目)になると授業が7限まであります。1日に50分授業を7コマやるので、授業が終わるのは16時5分。そこから掃除の時間があるので学校を出られるのは16時半ごろでした。専攻科に上がったばかりのころは、家に着くと玄関に倒れ込んで30分ほど動けませんでした。
授業は1日でも休んだら留年するかもと感じるほど授業のスピードが早く、テスト範囲も膨大。赤点が60点に上がり、先輩たちの留年も目の当たりにします。環境から受けるプレッシャーも、自分自身にかけるプレッシャーも異常でした。
勉強以外への体力を使いたくなかったので、お昼ごはんは友だちといっしょに食べるのですが、ほぼ無言で終わります。休み時間は10分しかないですがほぼ睡眠にあて、夢を見てよだれを垂らすほど熟睡していました。周りのみんなも寝ていました。休み時間に誰一人として喋らないことも珍しくありませんでした。
定型発達者でさえもこれだけ疲弊する環境で、敏感ゆえに処理する情報が定型発達者に比べて多いのにもかかわらず、自分自身よく生き延びてこられたなと思います。
それは、強い不安感があったからこそ、5年間やってこられたんだと思います。特に最後の2年間の火事場の馬鹿力は本当にすごかったです。
強い不安は力となり、私を蝕む
小学4年生で祖父が亡くなり、初めて死を意識しました。それから両親がいつ死んでしまうのか心配でたまりませんでした。
何もできないのに、働けないのに、頭は良くないのに、いい子でもいられないのに、自分で生きていかなければならなくなったら、どうしよう。この漠然とした不安感に対処するために看護師を目指すことにしました。
できるだけ早く安定して、社会的に信頼がある仕事につけるのは、私が知る限り看護師しかありませんでした。
だから、どうか私が看護師になるまで、父も母も死にませんように。
でももし事故や病気で亡くなったとしても、5年一貫の看護高校の学費ならバイトしながら賄えます。どんな状況になっても生きていける選択を小学生のときにしました。
そのとてつもない不安感が、フトーコーからの皆勤賞、成績クラス最下層からのクラス1位、内気な性格を変えるために生徒会長となり、人生を切り開き、看護師になりました。
ここまで人生を変えていける、変えていってしまうほどの不安感を抱えてきたのです。幼いこどもが抱えるには大きすぎる不安感を、みなさんは想像できるでしょうか。
事実や感情に対する過敏性と予期不安。どうしようもない不安に対処するために、できることは、行動をし続けることしかありませんでした。
これは才能なのでしょうか。
#041でも書きましたが、第三者からしたら私の10代で出してきた成果は立派なものに見えます。しかし、実際は特性に振り回されながら、とてつもない不安をどうにかコントロールしようと、もがき続けた結果だったのです。
5年一貫の看護高校卒業後、林業学校に進学。現在は、病院と皮膚科クリニック のダブルワークをしながら、発達障害を持っていても負担なく働ける方法を模索中。ひなたぼっこが大好きで、天気がいい日はベランダでご飯を食べる。ちょっとした自慢はメリル・ストリープと握手したことがあること。最果タヒ著『君の言い訳は、最高の芸術』が好きな人はソウルメイトだと思ってる。ゴッホとモネが好き。夜中に食べる納豆ごはんは最強。