心境、日常生活・社会参加は?

一般病床に移ってから、「なんとか筆談でコミュニケーションを」と思い、筆談を始めました。しかし書く速度が遅く、内容も限られていて十分ではないため、思っていることがすぐに伝わりませんでした。

退院後の自宅でも同じで、毎日イライラしていました。家族ともうまくコミュニケーションがとれず、人前に出るのが怖くなり、引きこもりの生活でした。

「生きている価値があるの?」とさえ思うことがありました。仕事などできる状況ではなく、まだまだやり残したことがあるにもかかわらず、院長職も辞することになり、「悔しい!」の一言でした。後にこれがパワーの源のひとつになるのですが、そのときはそんなことは思いもせず、ネガティブなことばかり考えていました。

そのうえ手術後3カ月に内視鏡検査をしたところ、食道がんが発見されました。食道がんは下咽頭がんの30~40%の人に併発するといわれており、ご多分に漏れなかったのです。ステージは1、初期だったので内視鏡視下で切除を行いました。

その後、再発はなかったのですが、ここまでくると、なかば開き直りの心境にもなりました。だらだら家にいても仕方ないと、その年の年末くらいからすこしずつ仕事に行くようにしました。もちろん十分なことはできるわけもありません。ただ顔を出すだけで、事務的なことをするくらいでした。ほとんど人と交わることはなく、フラストレーションは溜まる一方でした。

その後、すこしずつ人にも慣れてきました(あくまでも身近な人だけですが)。翌年、2017年2月、2年ぶりに広島で行われた回復期リハビリテーション病棟協会の理事会に出席しました。もちろん妻の助けがなくては、移動や宿泊もままならなかったですが、遠出するのは久しぶりでした。

理事会でのあいさつは、コンピュータの発声ソフトを使用しました。声に未練があったのだと思います。その後、10月に久留米、翌年の3月に岩手での学会、理事会にも出席しました。妻が椎骨動脈解離になり、安静が必要なため、岩手には息子が付き添ってくれました。

しかし依然として、コミュニケーションツールは筆談しかありませんでした。

筆談の問題点は、文字を書くのに時間がかかる、書ける情報量が制限される、微妙なニュアンスが伝わりにくい、1対1以外でのコミュニケーションがむずかしいなどがあります。その結果、スムーズで十分な意思疎通ができず、お互いイライラしてしまいます。

ただし会議など、静かにしないといけない場では、筆談を使用するビジネスマンも多いそうです。

このときの妻の気持ち

離床が進まず、疼痛に対する恐怖から拒否をするようになりました。
頑固者で(病気になる前からですが……)、経口摂取が許可されているにもかかわらず、のどが詰まるからと言って食事を摂らない夫に、担当の看護師さんと一緒に、なかば押し切るように離床させ、食べたいと思うものをすこしずつ食べさせました。

私は、うっすらとしか覚えていませんが、なんでも拒否する、厄介な患者だったと反省しています。妻にはよく看病してくれていたと、感謝の気持ちでいっぱいです。



太田利夫
西宮協立リハビリテーション病院

1957年生まれ。大阪医科薬科大学大学院卒業、医学博士。2015年58歳、働き盛りで下咽頭がんに。そして、2016年声帯全摘出し、声を失う。そんな時、電気式人工喉頭と出会い、第二の声を得た。電気式人工喉頭という音声によるコミュニケーションツールの重要性と、機能回復だけでなく社会生活に復帰、さらに講演という社会参加にも前向きに取り組むようになった。また、言語聴覚士養成校での講義を電気式人工喉頭で行うことにより、学生のモチベーションアップにつながっている。
西宮協立リハビリテーション病院名誉院長、日本リハビリテーション医学会専門医・指導医、日本整形外科学会専門医、日本リハビリテーション病院・施設協会理事、回復期リハビリテーション病棟協会理事。